見出し画像

感謝して生きるということ

色々な動画やブログなどの人様のお話に「感謝して生きる」大切さは説かれていると思いますが、昨日、私は改めて「感謝して生きる」ということの力、意味について考える機会がございました。

それは、私達はついつい、人様との比較から自分の人生の足りてないと感じているところに目が行ってしまっていて、『既にある』ものはそれが当たり前過ぎて、改めて意識したり、それに感謝して生きるということをしていないと思いました。
少なくとも、私はそうだと思いました。

そして今、もしも自分が目が全く見えなくて、耳も全く聞こえなくて、声も出せないという障害を持って生きるようになったらどうなのだろうと考えてみました。

私は今、故郷で養蜂(ようほう)をされている同級生をたまに手伝って、時々田舎に暮らしておりますが、今の故郷は春の芽吹きに満ちていて、山々がとってもきれいですし、山桜も次々と咲いていてほんとうにきれいです。そして、たくさんの鯉のぼりを見ることが出来て、とってもきれいで楽しいです。

そしてまた、実家のお庭にも水仙やチューリップ、シャクナゲなどが次々と美しいお花を咲かせております。そして、もう少しするとほんとうに見事なボタンのお花が咲きますので、それをとっても楽しみにしております。なので、そういったものが、もしも今、目が見えなくなってしまったら、もう二度と見ることが出来ないのだと思いました。だから、今見えることがほんとうに有難いことなのだと改めて、ほんとうに改めて感謝させていただくことが出来ました。

また、もしも耳が聞こえなかったら、故郷で聞いたうぐいすの鳴き声も聞こえませんし、キジの鳴き声も聞こえませんし、川の水の流れる音も、風が木々を渡る音も聞こえませんし、好きな音楽に心を癒やされることもないのだと思いました。

また、声が出せなくなるなれば、自分のそういった自然や音楽に関する感動や、色々な気持ち、または意見や希望なども誰かに声に出して伝えることが出来なくなります。そして私は、ライトランゲージという宇宙の光の言葉を歌にする歌手でもありますが、それを歌わせていただくことも出来なくなります。それはきっととても歯がゆい人生だろうと思えました。

なので、見えること、聞こえること、声が出せることだけで考えても、それだけでどれだけ有り難い人生を生きているのかと改めて気が付くことが出来ました。でも、これだけのものが与えられていても、そこに改めて目を向けて感謝して生きている人はたぶん少ないのだと思います。私はそうでした。そして、多くの人は、自分の思うように、好きなように動ける身体も持っています。

また、私達の人生は私達の意識が創造していると良く言われます。だとするなら、足りてないところばかりに目を向けて、毎日不平不満を思ったり、口に出しているとそういった人生が作られていくことになります。それはとても怖いことと思いますが、私達は常にそちらの人生を選択し、創造して生きてしまっていると今は感じます。
なのでこれからは少しでも、「有り難し」に気が付くことが出来て、感謝して、より謙虚に生きていけたらと思います。それはきっと、感謝して生きていくので、感謝する未来しか作られないということにもなると今は信じられます。

昨日の気付きをお話させていただきました。
このお話がどなたかのお役に少しでも立ちますことを祈ります。本日もお読みいただいて有難うございました。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?