大谷翔平選手の”遊び”と、世俗世間の無聊の慰めの違い。

大谷選手の通訳が、スポーツ賭博で7億円近い借金をして、大谷選手の口座から埋め合わせをした事件が世間を賑わす前、大谷選手の新妻が、五千円のバッグを持って海外遠征に同行している写真が取り上げられているのを見て、いいなあと思っていた。
 二人が付き合って数年が経ち、その間に、野球以外の副収入も含めて年間に数十億円の稼ぎがある彼に、新しいバッグをねだってもいないし、プレゼントもされていない、そもそも、そういう必要性を感じていないという雰囲気が、新しい時代だなあと。
 少し前までは(周回遅れの人は、今でもそうだが)、「セレブ」という言葉で象徴される姿が、カッコいいとされていた。有名人でお金持ちと一緒になって、着飾って、贅沢な暮らしをすることが素敵だと憧れ、そういうポジションを狙う輩も大勢いた。
 大谷選手は、「チャラチャラした人は好まない」という言い方をしていたが、「セレブ」っぽさを装いたい人は、その「チャラチャラ」の中に含まれ、五千円のバッグでも何の不満も不自由も感じていない自然体の彼女のような人が、自分に合っていると大谷選手は思っている。
 大谷選手は、いくらお金があっても、おいしいものを食べるためや、高価なワインを飲むために、外食をすることはないという。
 スパゲティに塩をかけて食べるというくらい、食べることは、身体を作るためと徹している。
 そういうストイックさに対して、チャラチャラした人たちは、遊び心がないとか、余裕がないなどとケチをつけるかもしれない。
 しかし、そもそも「遊び」というのは、白川静さんの言葉によれば、神遊びが原義であり、神とともにある状態を言う。
 それは、人間的なものを超える状態を言う語である。
 大谷選手は、大リーグという世界最高峰の舞台で二刀流に挑戦して、結果を出しているわけだが、そのことについて、誰もが、従来の人間の常識を超えた何かを感じているわけで、そういう意味で、大谷選手は、真の意味で、自分の全時間を、「遊び」に投じている。
 あまりにも人間的な俗世間での虚栄や無聊の慰めのための「趣味」程度のものを、「遊び」だと勘違いしている人が多い。
 人間的なものを超える状態を「遊び」というなら、それは、全身全霊で行ってこそのものだと言える。
 そして、人間的なものを超える状態というのは、大谷選手のような超人的なスポーツマンだけの特権とは限らない。
 「人間的なもの」の定義は、一般的に人間が理性分別で決めてしまいがちな常識の範疇にあるものと言える。
 大谷選手は、結果を出したことは当然素晴らしいのだが、結果を出す前、他の人たちが「無理だからやめておけ」と決め付けていた二刀流に、頑なまでに挑戦しようとしていたことが、すでに「人間的なもの」を超えていた。
 さらに、投手として出場しているのに、体力温存を考えず、全力疾走して、走塁まで果敢にやろうとする姿勢が、一般的な人間の理性分別(つまり打算や計算)を超えていた。
 現代社会では、仕事とプライベート(自分の趣味的な時間)を分けるべきだという論調が強い。
 これについて、私は、若い時から、ずっと疑問に感じていて、そうした社会の風潮は自分には関係ないというスタンスでやってきた。
 だって、そういう考えだと、自分の趣味的な時間が重要で、それを支えるために、しかたなく仕事をやっているということになる。そうすると、仕事の時間は、自分にとって不毛だということになる。人生の半分以上の時間を捨ててしまうことになるのだ。
 仕事と自分の時間の区切りがなく、トイレや入浴の時も、朝、布団の中で目覚めた時も、ずっと仕事のことが思い浮かぶような状態を、不幸だと言えるかどうか、という問題がある。
 もしそれが、誰かに強制されたり、自分の本意でないことならば、不幸だ。しかし、自分の本意として、その仕事を選択して、その仕事に苦しみもあるけれど十分な喜びも感じているのならば、自分の時間を、仕事に関すること全てに費やしていても、不幸ではない。
 むしろ、そのように夢中で没頭しきっている状態こそ、一種の「人間的なものを超える状態」であり、真の意味で、遊びだとも言える。
 なぜなら、思いもよらぬ閃きなどは、そうした忘我の集中状態で起こることが多いからだ。
 会社経営者や、職人さんや、芸術家や、科学者などは、それがわかっている。
 ニュートンが木からりんごが落ちるのを見て引力を発見したというエピソードは、歩いている時もずっと頭の中で考え続けていたからこそ、目の前の出来事と、自分の脳内回路がつながったのだと思う。
 世俗的で趣味的なプライベート時間の楽しみと、忘我の集中状態で閃きを得た時の喜びは、満足度としては次元の違いがある。
 本気の状態で得た歓びを知った者は、息抜きとしての楽しみを、大したものだと感じられない。
 高級ブランドを来て数十万円のバッグを身につけたところで、それがどうしたの? という感覚になる。
 私は、これまでの人生で、総資産が数千億円の超大金持ちや、芸術家や写真家や作家や学者の家を訪れたり、通い続けたことがある。
 そして、はっきりとしていることは、いくら高級そうな家具や装飾で飾っていたとしても、単なる置物にしか見えない状況と、その人の「からだ」や「魂」とつながっていると感じられる状況の違いだ。
 前者は、その場所に、他の誰かが住んでいても大して変わらないが、後者は、その場所に、その人が住んでいるからこそ、その世界が成り立っていて、だからこそ、記憶に残り続ける。
 後者で一番衝撃的だったのは、白川静さんだった。世紀の大学者の家だから、広々とした日本庭園付きの純日本家屋かと思っていたが、真逆で、これは松岡正剛さんも書いていたと思うが、その書斎は、撮影カメラも入れないような狭い所に莫大な書物が積まれて、そんな穴蔵のようなところで偉大な探求を続けておられたが、時空を超えた探求の旅であることが、その空間からも伝わってきた。
 作家の日野啓三さんも、自ら好んで、洞窟のような光の入らない狭い部屋で執筆をしていたが、意識変異のゾーンに入るために、その方が良いと言っていた。
 大谷選手の妻が、高級ブランドで身を固めた(チャラチャラした)女性で、大谷選手の隣に並んでいたら、不自然で、なんだか体裁が悪い。
 5000円のバッグを身につけていても、それが、その人の内面も感じさせて、似合っていて、素敵であるということが、この時代に、とても新しい風を送り込んでいるように感じる。
 大谷選手のような影響力のある人間は、当人が意識していなくても、社会の風向きを変える可能性がある。
 世俗的な分別や世間の流行による価値観の影響を受けずに、自分の持ち時間の全てを、自分が夢中になれることに集中できて、自分のカラダと魂を作る物をそばに置いて吸収して、虚栄の消費目的のものには関心を持たない。
 ほぼ毎日が全身全霊という「遊び」の境地。それは、子供時代がそうだったし、おそらく、縄文人もそうだった。縄文人は、だから、同じ暮らしを10,000年続けていた。変える必要がなかったし、変えたいとも思わなかったから。
 現代の最先端を生きている大谷選手のメンタルは、とても古代に近いように思う。

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