人間の目には見えない宇宙の真理


 太陽フレアの大爆発によって、低緯度でもオーロラが見られたというニュースが、各地から届いている。
 その場にいた人たちがスマホで撮影したオーロラを、世界中のどこでも見られるわけで、地球上に起きていることを人類全員が共有化できる時代になっていることを、つくづくと感じる。
 素人が撮ったものでも、オーロラの映像は美しい。しかし、どこか不気味でもある。太陽活動が、ダイレクトに地球に影響を与えていることの証明でもあるからだ。
 私も含めて、私の周りでも、この期間、体調のすぐれない人が何人かいる。携帯電話の電磁場で体調がおかしくなる人もいるわけだし、脳のシナプスや人間の細胞のイオン交換など、私たちの身体も一種の電気活動なのだから、大量の陽子(正電荷を帯びている)が吹き付ける太陽フレアの大爆発の影響をまったく受けないということはないだろう。
 私たちが生きている地球は、空気という電気的には中性の分子に取り囲まれているものの、高度10万メートルまでいくと、陽子と電子が自由に動き回るプラズマ状態だ。負電荷を持った電子と正電荷を持った陽子がほぼ同数で混在している状態では電気的に準中性だが、そこに太陽から大量の陽子(正電荷)が吹き付けるわけだから、電気的なバランスが崩れる可能性がある。だから、オーロラという発光現象が起きている。
 そして、地球の核は、主に鉄を主とした金属の塊であり、この金属部分が動くことで発電機のように電気が生じ、その電気によって磁場が作られていると考えられている。
 通常は、この磁場の力によって太陽や銀河系から吹き付けられる太陽風(正電荷)や銀河からの宇宙線(不電荷)を跳ね返しているのだが、低緯度でもオーロラが見られるというのは、地球の磁場の通常のバリア力よりも、太陽風の力が少し勝っているからだ。
 いずれにしろ、私たちの生命活動だけでなく地球活動も、そして、太陽や銀河も含む宇宙活動全体が電気活動ということになる。
 現在の地震学の権威もそうだが、物理学を主体に宇宙や社会や生命のことを考える癖が、私たちにはついている。
 物理的な思考は、目に見えている現象の説明には向いている。
 1879年、アメリカの発明家エジソンが電球を発明し、世界から夜が消えた。電気が日常的なものになってからは150年しか経っていないが、理論物理学者のアインシュタインは、エジソンが電球を発明した1879年に生まれている。
 アインシュタインが特殊相対性理論を発表したのは1905年だ。
 プラズマに関する認識が広まっていったのは20世紀になってからで、アインシュタインが相対性理論で宇宙の構造を説明した頃は、宇宙全体が電気的な現象で成り立っているという認識はなかった。
 話は変わるが、私たちは、気配とか、気の流れといった言葉を使う。
 物理的な思考に偏っていたら、気配というのは、ただの錯覚でしかないが、気もまた、エネルギーの流れだ。
 人の周りの気配がオーロラのように色で見える人が、確かに存在する。
 渡り鳥は、磁力線が、目に見えていて、その線にそって飛んでいるという研究報告がある。磁場に反応するタンパク質が、視覚神経のなかに存在しているようなのだ。
 また、人間には目えない紫外線を、夜行性の哺乳類や、トナカイは、見ることができる。
 紫外線は、視覚細胞に有害なので、一般の動物では水晶体などで吸収し、網膜に届かないようになっている。だから見えない。
 しかし、緯度の高い地域に生きるトナカイは、冬、太陽がほとんど地平線から顔を出さない時は、空が青っぽく薄暗い状態で過ごすことになるので、その状態でも物事がよく見えるように、紫外線も網膜に届いている。その時、トナカイの瞳は青色になっている。
 そして、太陽光が降り注ぐ夏期間、トナカイの瞳は黄金色になり、紫外線が網膜に届かないように変わる。
 つまり、見えるとか見えないというのは、その時々の環境によって、生命体の身体が、変化しているだけのことにすぎない。
 現代社会においても、生活サイクルが昼型と夜型では、物の見え方が違ってくる可能性がある。
 一人の一生では、それほど大きな変化はなくても、何世代も続くと、どうだろうか?
 電気の無い時代、闇の深い時代に生きていた人々が、冬期間のトナカイのように、波長の短い光が少しは見えていた可能性だって否定できない。
 また砂漠のように光が溢れている環境世界と、森のような薄暗い環境世界では、人間の目の見え方も変わってくるだろう。
 キリスト教やユダヤ教やイスラム教など一神教が、砂漠から生まれた宗教だということはよく知られている。
 それに対して、森の国である日本は、八百万の神と言われる多神教の国であり、樹木や岩や滝などが神々の依代とされてきた。
 自然への感謝や畏敬や畏怖は、抽象的な概念ではなく、具体的なものだったのだと思われる。
 日本には、大地震や台風など自然災害が多いということもあるが、それだけが理由ならば、アニミズムではなく、一神教の神の怒りとして受け止めることも可能であり、日本の自然崇拝や精霊崇拝は、具体的に、そのように感じとる敏感な身体的感覚が、日本人には備わっていたからかもしれない。
 たとえば、日本にはラジウム温泉が多くあるが、その大半が花崗岩地帯であり、花崗岩地帯は、自然放射線が強い。そして、比叡山や安芸の宮島や琵琶湖の竹生島など、聖域も多い。
 癒しの島として人気がある屋久島は、屋久杉など豊かな森林資源があるだけでなく、島全体が花崗岩であるため自然放射線も強く、それが癒し効果になっているのかもしれない。この島は雷も多く、かなり電気的な場所であることは確かだ。
 また、東の鹿島神宮から秩父を経て諏訪、伊勢、高野山、九州の高千穂まで、日本の重要な聖域が、中央構造線上に並んでいることもよく知られている。
 なぜそうなのか明確な答えはないが、事実としてそうなっているのだから、何かしらの理由があるのだろう。
 花崗岩地帯に聖域が多いのと同じで、中央構造線上も、エネルギーの力が強い可能性があり、現代人にはわからなくても、古代人は、それがわかっていた。
 使わない筋肉や脳力は衰える。私たちは、そのことを実感として感じている。
 しかし、私たちが、実際は衰えているにも関わらず、あまり感じ取れていないのは、感じる力なのだ。
 感じとる力が衰えているから、感じとる力が衰えていることを、感じ取れないという悪循環。
 感じる力が重要なはずの芸術表現分野などにしても同じで、コンセプトという頭でっかちの理由づけが作品評価の基準になってしまっているのは、感じとる力が劣化してしまっているからだろう。
 感じとる力というのは、生命体が生きるうえで最も重要な力だ。地震が起きそうな気配を感じた生物が、突然動き出すのも、そのためだ。
 犬は、オーロラが出る前に吠えるそうで、それは、オーロラの音が聞こえているからだという説もある。 
 また、上空にオーロラが見えていないのに、犬の遠吠えに合わせてシャッターを切れば、オーロラが写るという話もある。
 エスキモーにもオーロラの音が聞こえるようで、エスキモーにとってオーロラは、死者の精霊だ。
 オーロラ観測の観光客の中にも、時々、聞こえる人がいるという。
 目と同じで耳だって、生きている環境によって、その力は変わってくる。 
 コウモリのように視力にハンデがあると、聴力が異様に発達する。もしかしたら、これは逆かもしれず、圧倒的に優れた聴力を備えているからこそ、中途半端な視力がノイズになるので、その力を劣化させた可能性だってある。
 すなわち、人間も生物も、環境に合わせて自分自身の最適化をはかろうとする。
 銀行員になることが人生の成功者になると信じていれば、銀行員になるための努力をするように。
 しかし、人間にとっての問題は、人間自身が、環境を人工的に作り出すことであり、その人工的環境のなかで人間が最適化をはかろうとすること。その過程のなかで、上に述べた「感じる力」のように、人間は、自らの環境に合わせて生きているうちに劣化させてしまう能力があるのだけれど、そのことに無自覚のまま、新たな人工的環境を作り続けるという悪循環を引き起こす。
 解決策は、これだと言い切れるものはないけれど、同じ環境に染まらないということが、大事なポイントかなという気がする。
 同じところに住み、同じ職場に通い、同じ人とばかり会うと、自分の感覚が鈍っていても、そのことがわからなくなってしまう。
 古代日本人は、マレビトを大事にしていた。
 マレビトは、不安で畏ろしい存在でもあるが、異なる世界との媒介者でもあった。
 芸術表現や学問研究もまた、一種のマレビトのようなものだったけれど、いつのまにか、現実に即したものが有用とされる価値基軸ができてしまった。
 芸術や学問が、すでに常識化してしまっている現実感覚を固定させるものに成り下がって、現実の向こうへの扉を開ける力にならないと、胸をときめかせたり、胸を打つものにならない。
 私たちの感じる力は、なくなってしまったわけではなく、抑制する方向へと導かれている。
 子供の遊び場が典型的だが、何かあった時の責任問題とやらで、いろいろな場所で過剰な安全対策がなされているが、それは同時に、人間の危険察知能力を減退させる。
 経済は、人の感覚を麻痺させることが、成長の原動力であり、政治も、人々の感覚が鈍い方が、操りやすいくなる。
 本来、その突破口にならなければいけない芸術表現や学問も、消費経済の下僕になって、現実対応という処世的なことばかり気にする時代に、私たちは生きている。

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