結果を求めるのか、結果としてそうなるものなのか。

 結果を意識しすぎて、ストレスを抱えたり悩みこんだりする人が多いから、「結果にコミットする」と力強く宣言する会社が商売繁盛ということになるのかもしれないけれど、そもそも結果とは、そこを目指すものではなく、結果としてそうなった、というのが自然だったはず。
 明確なゴール設定というのは、ずっと同じ価値環境の中にいると害はないが、価値観が変動しやすい状況のなかでは、一つの結果を目的としてしまうことは、そのこと自体が自分を縛って不自由にしてしまうかもしれない。
 私は、20歳の時、海外放浪をしている時に、明確なゴール設定も目的設定もなく、そういう状態を気ままでいいと言う人もいるが、実は、かなり不安でもあった。
 行先で出会う人が、海外青年協力隊の人であったり企業から派遣されている人であったり研究者であったり、それぞれが、自分が何をしている人間なのか、堂々と語る。それに対して、自分のアイデンティティがない私は根無草で、あなたは何をしている人?と聞かれるのが苦痛だった。
 とりあえず社会に入ってからも、これが自分の天職というものがわからなかったから、放浪時代の時と、心理的には変わらなかった。
 だからとりあえず、目の前のことに対して、余計なことを考えずに、それを一つひとつ極めてやろうというくらいの感覚しか持てなかった。
 その分、意識のアンテナを特定の枠組みの中に閉じこもらさずにすんだ。
 とりあえずの指針として、30歳までは、器の中に物事を入れようとするな、器を大きくすることだけ考えよ、ということを設定した。
 狭い枠組みの器のまま物事を詰め込んでいっても、すぐにいっぱいになってしまうから。
 一つひとつ極めるというのは、とくに達人になるというほどではなく、たとえば某化粧品会社の関係の仕事をしていた時には、膨大な印刷物を扱わざるを得ず、納期が厳しく修正も当たり前だったから、印刷会社の言いなりにならず、印刷会社を説得するため、印刷会社の現場を見せてもらって構造を理解したり、印刷見積もりを自分でできるようにしていた。そのまま印刷会社に転職しても、営業の仕事がすぐにでもできるくらいに。
 東芝やセブンイレブンの仕事をしている時は、膨大な数の35mmスライドからのセレクトのため、毎日のようにビュアで覗き込むことをやっていたこともあった。1000枚の写真を100枚くらいに絞り込んで、ディレクターに渡すために。
 こうしたアシスタントの立場は、現場の底辺の仕事が、自分の能力を高めていく機会になる。
 後に、印刷のこととか、写真を判断する力が必要になる仕事を行うことになるが、当時はそんなことまるで考えていなかった。
 私は、ワークショップにおいても、エンジニアリングとブリコラージュの話をする。
 設計図に基づく家づくりと、宮大工の家づくりの違い。西欧の庭園と日本庭園の違い。形と大きさの決まったブロックを積み上げた壁と、石工が、大きさも形もバラバラの石を絶妙に組み合わせて作る石垣の違い。
 前者がエンジニアリングで、後者はブリコラージュ。ウィキペディアなどでは、ブリコラージュは寄せ集めと説明されるが、単なる寄せ集めではなく、最適組み合わせ。レヴィー・ストロースは、このブリコラージュこそが、生命原理だと唱えた。
 生命原理がそうなのだから、人生もまた、そうだろう。
 目的主義的なエンジニアリング思想の人生設計は、生命として不自然なのだ。
 家や壁も、エンジニアリングで作られたものは、長くて50年、近年では20年ほどでガタがくる。ブリコラージュで作られたものは、その10倍の持続性がある。強靭だけれど柔軟性があるからだ。
 幅というのか、間合いというのか、遊びが、ブリコラージュにはある。厳密に整えられすぎた西欧庭園と違う日本庭園の魅力は、そこにある。
 私は、様々な分野での放浪の末、風の旅人という媒体を作ったけれど、その際、石工が作る石垣や、日本庭園のようなものを指向した。おそらく、雑誌編集者になる目的のために出版社に勤務するという限定した経験を踏んでいたら、出版社が作る雑誌のバイアスがかかり、エンジニアリング的な狭い枠組みのものしか発想できなかったのではないかと思う。
 既存の出版社が作っている物に追随もせず影響も受けなかった風の旅人の一番の特徴は、どんな分野のものでも、その器の中に入れて調和させることができる媒体だったということ。科学でも歴史でも自然でも、写真でもアートでも、何だって組み合わせることができた。
 だからタイトルも、無限の広がりにつながる「風の旅人」だった。
 雑誌媒体などにおいて「結果にコミットする」的なものは、ハウツーとか、すぐに役に立つ情報提供ということになるが、そうした「時空として限定されてしまうもの」は、自分の人生においても遠ざけていたことなので、生理的に合わなかった。
 しかし、媒体物を商売優先で考えるならば、「結果にコミットする」という類の方がよいと多くの人は思うだろう。
 私はそう思わない。なぜなら、けっきょく、結果にコミットする世界は、結果の達成度の競い合いになるので、勝者と敗者に分かれるだけ。勝者にしても、時代が変わって人々のゴール設定が変われば、存在価値はなくなる。
 エンジニアリング的発想に基づくものは、企画化と標準化されやすいので、似た物同士の競争になりやすい。雑誌媒体の現状もそうだった。
 それに対して、日本庭園とか石工が作る石垣は、オンリーワンだ。最適組み合わせで作り上げるブリコラージュこそ、オンリーワンなのだ。
 そういうものは、それがどういうものか説明することも簡単でないので、量的に広がりにくい。
 量的に広がりやすいものは、評論家や、テレビのコメンテーターが、簡単に言葉で説明できるようなもの。
 ブリコラージュのオンリーワンの物を大切にしている人は、自分は気にいっているけれど、他の人はどう思うかわからないからと、あまり積極的に周りの人に紹介したりしない。
 しかし、何かのタイミングで、同じものを大切にしている人と出会ったりすると、それだけで相手を信頼するということが起こる。「この人とは、わかり合える」みたいに。エンジニアリング的な世界では、こうした邂逅は起こりにくい。
 結果にコミットするものは、同じ結果を求める人に積極的に紹介したいという気持ちも生じるので、その結果を求める人のあいだで急速に広がっていくが、それは、人間としてお互いにわかりあえているということではない。しかし、そういう広がりが、世の中のニーズに応えていると評価される。 
 しかし、そのニーズというのは表層的なものであり、現代の自我執着社会においては、目の前の結果を求める人たちのあいだでも、本当のニーズは、自分の存在感の獲得にある。
 結果というのは、それこそ結果的に成るべくしてそうなったというものであり、石工の石垣は、全体ができあがった時点で、その中に組み込まれた歪な形の石の役割と存在感が明確になる。
 作る前は、エンジニアリング的発想だと、こんな歪な形で小さな石、役に立つのかよと切り捨てられる可能性の高いものが、実は、くさびとなって、非常に有効な役割を果たすことになる。
 そういう意味において、結果を急ぎすぎないブリコラージュ的発想においては、捨てる物などない。目の前のものに内在している力を引き出すことに意識が向く。
 人生もまた、目の前の多くのことを、(目的主義に陥って)意味がないと切り捨てることを続けていると、手持ちのカードは痩せ細っていく。
 後になって、これがそんなに役に立つとは思わなかった、ということはたくさんある。
 私の場合、印刷に関する知識や、写真を観て選ぶ力などもそうだった。
 雑誌編集者になることを目的として、その結果のために努力するのはいいのだけれど、そのために書店に行って「雑誌編集者になるために必要なこと」の類のハウツーを買ってきて読んでも、大した編集者にはなれないだろう。
 生命は、様々な器官が編集されて成り立っているが、その編集の原理はブリコラージュだ。
 ブリコラージュの極意を身につけることが、編集の仕事において、最も大事なことであり、そのためには、人生もまた、狭く限られた目的主義に陥らないことが大事だという気がする。
 雑誌編集に限らず、どんな仕事も、実は、編集力で成り立っている。

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