ビックデータ

相関関係が単純になる結果、社会が因果関係を求めなくなる。「結論」さえわかれば、「理由」はいらなくなる。データの使い方が変わる。

例えば天文学。2000年に「スローンデジタルスカイサーベイ」プロジェクトが始まったが、最初の数週間に収集したデータ量だけで、天文学の歴史全体を通じて集めたデータ量を超えた。2010年には、蓄積されたデータが140テラバイト(テラは、10の12乗)。ところが、2016年にチリに設置予定の死のプティックサーベイ望遠鏡は、これだけのデータをわずか5日で集めてしまう。

ヒトゲノムが解読されたのは2003年。30億の塩基対応の配列を決定するまでに10年の歳月が必要だった。それから10年。ゲノムマシンは15分で解析。10万円以下で、個人が自分のDNAを解析できる。

現在は、情報量は3年で倍増する。規模の変化が状態の変化を生む。

暮らしの中で常に不変だと思い込んでいる制約条件も、活動のスケールの大きさで簡単に左右される。

コンピューターはインターネット社会を準備した。インターネットはビッグデータ社会を準備する。ビックデータは、何の準備となるのだろう。

ビジネス、科学、医療、政治、教育、経済などあらゆる部分にパラダイムシフトが起こる可能性がある。世の中の味方も社会の在り方も変わる。

ビックデータは恣意的でも無作為抽出でもなく、文字通り、すべてのデータを漏れなく処理することになる。

厳密さはいらない。量さえあれば精度は重要でない。絶えず変化する大量のデータを相手にするゆえ、完璧な正確さをめざす必要はなくなる。現象の基本的な方向感がつかめれば十分というケースも多い。といって、正確さを完全に捨てるわけではなく、正確さ依存症から脱却する必要があるということ。新たなひらめきには必要なこと。データ同士の間に何らかの相関関係(一方が変化すれば他方も変化するような関係)が見つかれば新たなひらめきが生まれる。因果関係で説明できないことは山ほどある。理由はわからないが、ある現象が見られるという事実に気付くことで十分。

確率や相関関係が重視される世の中では、専門知識の重みが薄れる。

ビッグデータの時代、個人にとって恐いのは、プライバシーよりも確率である。人は、確率によって計られる。心臓発作の可能性(保険料の算出)とか、逮捕される可能性とか。存在自体が、確率の賜物ということになる。個人の尊厳はどこにいくか。個人の尊厳を守るための新たな指針、ルールづくりはどうなるのか。その土台となるのは、私たちが大切に守り続けてきた価値観。古いルールを見直す必要がある。


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