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伝わらないことの価値

少し前に、ほぼ日の糸井重里さんが参加するパネルディスカッションをみたことがある。鎌倉投信の新井さんと、ふんばろう東日本支援プロジェクトの代表だった西條さんと、糸井さんの3人の対話だった。そのとき、とても印象に残ったことは、糸井さんの話がとてもわかりにくかったことだった。

糸井さんの話しぶりは、実際、凄まじかった。小学生でも知っていそうな平易な言葉だけをつかい、噛んで含めるように、ゆっくり、ゆったりと話す。それでいて、わからない。正確にいうと、わかりそうで、わからない。そして、たまに、わかる。そんな感じだった。

会話のコミュニケーションをよくキャッチボールにたとえるが、糸井さんがあの日放り投げたボールは、私が精一杯に走って手を伸ばしてようやく届くか届かないかの、ギリギリのところにストンと落ちる、絶妙な投球だった。ボールを追いかけて走り回ってヘトヘトになりながら、聴くという運動を楽しんでいる自分がいた。こんなコミュニケーションがあるんだな、と妙に納得したのを覚えている。

前置きが長くなった。昨夜参加した対話がきっかけで、このときのことを思い出した。

人と人との会話では、話し手が伝えようとする意味が、そのまま正確には相手に伝わらないことや、話し手自身がそもそもそれを正しく言葉にできないという事態が、まま起こる。昨日の対話では、それがハイライトされるシーンが何回かあって、「それは違うよ」「不愉快だよ」といった言葉のやりとりがあった。

このような、いわばコミュニケーションに摩擦が生まれる瞬間にこそ、対話が深まり、新しい意味が生まれるチャンスが転がっているのではないかという、直感があった。意味がわからないから、考える。都合のよいように解釈をして、意味を置きかえる。感情が動いて、それを場に吐き出す。心が動くと新しい言葉が出てくる。こういった運動が、対話にダイナミズムをもたらす。

このような対話は、今のところは人間にしかできない、非常にクリエイティブな営みなのではないか。

人の話を聴くことの奥深さをかいま見た、とても意義深い夜だった。

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