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禅語の前後:無影樹下合同船(むようじゅ げの ごうどうせん)

 もう10年以上も前の話、独りでパリに行ったことがあった。
 セーヌ川の観光船バトー・ムーシュで乗り合わせた、韓国から来た団体旅行中のおばさんたちのひとりに、英語で話しかけられた。当時の僕はまだ独身で、2年に1回くらいは独りで海外に行っていた。そんな話を僕がすると、あなた人生を楽しんでいるわねぇ、と彼女は笑って言った。

 その彼女との会話は、なぜだか不思議に、僕の中に消えずに残っている。船から見たセーヌ川の景色のほうは、まるで憶えていないのに。

 当時の僕には意味がよく分からなかったけれど、そのときの彼女にはきっと色々と、独りで自由にならないことがあったのだろう。今から思うと、同じような若者に同じように船で乗り合わせて話したとしたら、いまの僕も同じようなことを彼/彼女に言うのかもしれない、とも思う。


 さて、今から900年ほど前の話。禅宗の教科書のひとつ「碧巖録へきがんろく」に、乗り合い船のたとえ話が出ている。
 物わかりの悪い皇帝に対して、えらい坊さんが禅の教えを美しい詩にして説明するという、この手の中国禅のネタによくある様式の、その禅僧の詩。

湘之南、潭之北  しょうの南、たんの北
中有黄金充一国  中に黄金って一国に
無影樹下合同船  よう樹下じゅげ合同船ごうどうせん
瑠璃殿上無知識  瑠璃るり殿上に知識無し

「碧巖録」第十八則
(漢文は平凡社「碧巌録大講座」第4巻より、一部を常用漢字に変更)

 しょうの南もたんの北も、当時の中華最大の淡水湖だった洞庭どうしゅうのあたりを指す言葉らしい。南と北とを重ねることで「あたりいちめんに」というような意味合いが込められている。(ちなみに神奈川県の「湘南しょうなん」の由来は、鎌倉時代の禅僧がこの詩から取ったのだという説もあるんだそうだ。)
 国中に黄金が満ちている、というのは、この世の真理が万物に宿っている、というような解釈をされているようだ。あと、当時の洞庭湖というのは、黄金に例えても違和感がないくらいに風光明媚なところだったんだろう。
 ようじゅというのは、太陽が真上にある時間帯にできる木の影、高い木も低い木も同じような影としか見えない様子を指す。合同船ごうどうせんは乗り合い船で、老いも若いも男も女も独身物も既婚者も、誰もが等しく乗り合わせている船、を意味する。どちらのたとえも、いろいろな人や物があったとしても本質的には平等である、というような意味合いになる。船をたとえに挙げたのは、洞庭湖からの連想だろう。
 瑠璃るり殿上に知識無し、というのは、何も無いということこそが至高の知恵である的な意味合いと、皇帝として殿上に居るお前が何も知らないのだね的な皮肉った意味合いと、どちらの解釈もある。あるいは、両方の意味を込めていたのかもしれない。

 こう繋げて書いてみると、ひとつの景色が見えてくる。
 花の都の水辺に遊ぶ、真昼の乗り合い船のなか、黄金色に輝く風景のなかに、人知れず世界の真実があらわれている。

 乗合船というものは、不思議な縁で結ばれた人びとの運命共同体で、我がままをおさえて仲よくするのが乗客のエチケットである。皆お互いに独立自主の人格でありながらよく秩序を守り、和合し尊敬し合っていけば航海の平安が保たれ、目的の港に無事到着できるが、さもないと顛覆し難破してしまうことは見易い道理である。まして狂瀾怒濤の大しけの場合においておやである。しかも現代はまさに大しけの時であるのに、乗客のエゴイズムのためにエチケットが乱れ、難破しかけている大小の乗合船の何と多いことであろうか。

芳賀幸四郎「禅語の茶掛 続 一行物」より「合同船」

 芳賀さんはこれに続けて、茶席というのは合同船であるべき云々といった話で、この章を締めている。
 僕としてはそれに加えて、夫婦も家族も会社も、人と人とが折り合いをつけて一緒にいる関係性はすべからく、合同船であるべきだ、と言いたい。

 あるいはそれは夢を見すぎな話であって、せいぜい茶席か、あるいはセーヌ川の乗合船くらいでしか、成立しない話なのかもしれないけれども。