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禅語の前後:向南見北斗(みなみに むかって ほくとを みる)

 北斗ほくと七星ひちせいは目立つ星座なので、古代からいろいろと言い伝えが多い。中国などでは昔から神さま扱いされていて、例えば三国志演義えんぎ赤壁の戦いレッド・クリフを前にした諸葛亮しょかつりょう孔明こうめいが、祭壇を設けて風が吹くように祈る、その祈っている相手が、この北斗七星なんだそうだ。

 その名の通り、この星座は夜空の北に見える。
 柄杓ひしゃくに例えられるその星座の、一番目と二番目の星を繋いだ線を先に延ばせば、北極星に当たる。とうぜんながら、南を向いては北斗七星は見えない。

 俗に言う見当違い。南に面しては南斗は見えるが北斗は見えぬ。北斗を見んと欲せば北に面せざるべからず。

菅原時保、碧巌録講演 其13
(引用にあたって現代仮名づかい・常用漢字に改編)

「されど禅学者は」というくだりが、実にパンクロックしてて、良い。(このくだりは戦前に書かれた本の一節なのだけど、禅学者というのは千年前からパンクでロックだ。)

 見性けんしょうしよう、悟りを開こうというなら、よろしく「北に向かって北斗を見る」にも似た常識の立場を離れ、科学的知識や哲学的思索の態度を捨てて、「南に向かって北斗を見る」というような超論理的な態度に立ち、三昧さんまいという手段をとれというのが、この一句の意味である。

芳賀幸四郎「禅語の茶掛 一行物」、淡交社 刊

 理屈に合わないところでしか見えないものがあるのだ、ということなんだろう。
 考えてみると、このコロナ禍の東京暮らしの中では、長らく星座なんて見てもいないな。どちらが北かはGoogle Mapで見ちゃえるし、星座を見る用事なんて無いのだけど、味わいのない話ではある。

「南に向かって北斗を見る」ことができたら、松風の音も花の色も一段と味わいが深くなるであろう。

芳賀幸四郎「禅語の茶掛 一行物」、淡交社 刊