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懺悔文(さんげもん)

 うちの実家の法事で聞いたのが、みょうに格好よくて耳に残ったので、調べてみた。御住おじゅっさんの声が良かったのかもしれない。

 一般に「懺悔文さんげもん」と呼ばれるこの四節は、「華厳経けごんきょう」という長いお経、弘法大師空海と同世代の中国僧が翻訳した四十巻版のなかに記されている一部分からの抜粋にあたる。

シャク所造ショゾウ諸悪業ショアクゴウ
 (むかしよりつくる所のもろもろ悪業あくごうは)
皆由カイユウ無始ムシトンジン 
 (無始むしとんじんる)
ジュウシンショショウ
 (しんり生ずる所なり)
一切イッサイ今皆コンカイ懺悔サンゲ
 (一切、いま懺悔さんげしたてまつる)

懺悔文
般若三蔵、四十華厳「普賢菩薩行願品」より
(書下しは曹洞宗 圓通閣 澤龍山 少林寺のサイトより)

 一切我今階懺悔いっさいがこんかいさんげ、ようするには「私のすべての悪行をただ今このときに悔い改めます」という宣言、なのだけど、この「すべて」の範囲は実のところ、とてつもなく広い。
 華厳経は時空を超えた全ての仏、過去・現在・未来すべての宇宙にあまねく存在する仏さまの皆さんに対する誓いの言葉なので、この懺悔文でいうところの「われ」というのも、前世・今世・来世すべての自分に対する言葉になる。
無始むし」、はじまりがない、という表現は、この宣言の対象には生まれる前の前世での悪行も含まれる、ということを言いたいのだろう。

 とんじんは、それぞれ、むさぼり・怒り・愚かさ、にあたる。
 貪るように愛すること、恨み怒って憎むこと、それぞれ相反する強い思いだけれど、元を辿るとどちらも同じく愚かさから来るものなのだ、と、古代インドの宗教家たちは考えた。
 この仏教用語としての「愚かさ」について、ケンブリッジ大の仏教学者ピーター・ハーヴェイは「情報不足ではなく、より根深い現実認識の誤りnot lack of information, but a more deep-seated misperception of reality」と表現する。

 からだことばこころから、その悪行が起こるのだという。インド人は分類するのが好きだったのだろうな……。とにかく、人が成しえる悪行というのは、二千年も前から変わっていないんだろう。

 総じて、きつい話ではある。
 全ては空であり苦しみは取り除かれると歌い上げる般若心経はんにゃしんきょうや、一心に釈迦しゃかへと祈りを捧げる舎利礼文しゃりらいもんとは違って、この世は苦しいことばかりだけど私はそれを真っ向から受けて立つ、という誓いの言葉が懺悔文さんげもんだ。
 人生けっきょく後悔ばかりである。これまでだってそうだったし、これからだってきっとそうだろう。生きている限り原理的にそうなのだ。人は間違う生き物なのだ。
 だからといって諦めはしない。すべてを後悔し続けると宣言する。それは相当しんどい、めんどくさい話なのだけど、それを引き受けることがつまるところ、生きることへの誠実さを保つ秘訣、なのだろう。

※出典…
『普賢菩薩行願讃』について - 四天王寺大学リポジトリ
・Harvey, Peter (1990), An Introduction to Buddhism, Cambridge University Press