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理知を継ぐ者(31) 周囲という当事者②

 こんばんは、カズノです。

【形式というもの】

 SPA!誌で名指しされた5校の抗議文は形式的なものでしたが、べつに形式なら形式でいいと思います。そうしてテンプレ・コピペ文をちゃちゃっとMS-Wordで仕上げるならそれでいいとは思いますが、どうもこれら大学のMS-Wordには日本の伝統的なテンプレートが入ってないようだとは思いました。問題にしたいのはそこです。こういう場合、昔の日本人は必ず「自分の落ち度」も口にしたものです。

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 かつて、日本の文化は「謙遜の美」「謙譲の美」だといわれたことがありました。つまり日本人は、どういう場合でも自分を貶める表現を好みました。「貶める」は「おとしめる」と読みます。
 今回の場合なら、
「雑誌記事の内容はもちろん根も葉もない噂に過ぎませんから、厳重な抗議をさせて頂きました。ただ噂だとしても、そのような記事に本学の名が挙がるのであれば、それは私ども運営者の『不徳のいたすところ』です」
「私どもの学校運営に、ではまったく問題がないかといえば、決してそうとは思っておりません。私どもにも『至らぬところ』がまだまだあると考えております」
「火のないところに煙は立たないと言います。なんらかそのように誤解される振る舞いがうちの学生にあったのかも知れませんが、仮にそうなら、それこそ本学の『落ち度』といわねばなりません」
 というような、自分を低く見積もる一文が、かつての日本語テンプレートには必ず入っていたものです。

 そうしてそういう話の流れから、抽象的に「今後は一層身を引き締めて」とか、具体的に「すぐさま内部調査を行い、正すべきことは正し、皆さまにご報告いたします」というような内容を付けたがったのが、かつての日本人の「形式」だったということですけどね。実際にそうするかどうは別として。
 でもその一文がないという、先のテンプレ文の気持ちわるさとはそういうものだとおれは思います。

【形式から生まれるもの】

 実際にそう思うかどうかは別として、かつての日本人は「いえいえ、私にもダメなとこがあった(かも知れません)」という表現を好みました。じゃあこれってどういうことでしょうか。「そう言っちゃった手前、そうするしかなくなる時もある」ということです。

「今後は一層身を引き締めます」と言っちゃった手前、身を引き締めてるふりをしないとならないとか、相手から「じゃあ内部調査を」とツッこまれたら、ほんとに調査しないとなんなくなるとか、まあそういう可能性がある。
 それはそれで覚悟しときゃなかなんないし、いやもう先んじて自分から内部調査の準備みたいなことはしておくか、だって自分から言っちゃったんだからというのも、日本人にありがちな展開でした。

 なので日本人は、意外とふだん日常で、自省とそれに伴う行動をしていたものです。
 じゃあこの「自分にもダメなとこがあった(かも知れません)」がない、学校運営の今ってどういうものでしょう。

【自省を生まない形式】

 ある週刊誌で「この大学の女子生徒はヤレるぞ!」と報道されるということは、べつにギャラ飲みになど行かない生徒だって、一方的に『ひとみん』『ひとみん周辺のコ』みたいに思われる可能性があるということです。それで危険な状況に追い込まれることがあってもおかしくありません。
 そこらへんは大学の抗議文でもしっかり押さえられていますが──「本学生徒の安全を脅かすもの」と表現されていますが、でもこれって、どこまで本気の心配なんでしょうか。
 そういう危険な状況について、形式的な抗議文で済ませる大人の意識ってなんでしょう。別に本気の心配などしてないと、捉えられても仕方のないものですよね。

 言い換えれば、この「形式的」に「自分にもダメなとこがあったかも知れません」が入っていれば、そんな「形式的な心配」も「本気の心配」に変わる可能性はあるということです。そう言っちゃった手前、内部調査をしないとならなくなるかも知れないからです。
 調査の結果、「えっ、まじでうちの女子生徒やばい!」になるかも知れないし、だから「守らねば!」になるなら、そっちのほうがいいじゃないですか。

 現にいてしまう女子大学生『ひとみん』が報道された時点で、それはもう他人事ではなくなっているはずなのに、でもこれら大学のテンプレ抗議文は「対岸の火事」の印象しかありません。名指しされても対岸の火事、これってどういう危機意識でしょうか。



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