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リアル(写実)のゆくえ展を観た

年度末の波を乗り切ったご褒美に有給休暇をもぎ取り、久留米市美術館に行ってきた。
今回観た展覧会は「リアル(写実)のゆくえ展」。街中でポスターが飾ってあるのをちらりと見て、そこからさらにじっくり観て、「これは行かねば!」と決意を固めたのだ。

久留米市美といえばペリカン


以下リンクからジャンプして、そのポスターをぜひ見ていただきたい。

信じられるか…?油彩なんだぜ、これ…。

本展示はそんな極限まで突き詰めた「リアル」がテーマ。近現代の作品を中心に、超絶技巧を凝らした作品がずらりと並んでいた。
アクリルに閉じ込められたぬらりとした金魚に、どう見ても油彩だと理解できなかった金属部品。手の産毛まで柔らかそうな鉄の鼠に、風に揺らぐ鹿角製の一輪の花。どうやって作ってんのこれ…?と、作業工程を想像したくなるような、でも想像したら頭の容量が天元突破してしまいそうな、兎にも角にも並大抵のアイデアと技術がなければ生み出せないような、容易に真似するのはほぼ不可能であろう作品がずらりと並んでいて圧巻だった。
それと、≪リアル(写実)≫を表現するための技法とそれに対する思いが、時代によってどう変わっていったか、またどのように継承されていたかについても検証されていたのも面白かった。新しい考え方を旧来の技法に反映してアップデートした明治の作家たち。新しい考え方に基づき旧来の技法をリバイバルした令和の作家たち。方法はそれぞれ違うけど、目指す先にあるものは同じ≪リアル(写実)≫への追求だったのだろう。

個人的に一番印象に残ったのは、本田健氏の油彩画だった。

本田健『道(庭)』2017年 ※購入したポストカードを撮影

展覧会の中では比較的「緻密さ」が薄い作品(他の作品の緻密さが尋常ではないため)ではあったが、私としては本田氏の作品が、いちばん「リアルだな」と感じた作品だった。
これらの絵を一目見たとき、昔から今まで触れてきた「雑草が茂る場所」の空気感がグワーっと押し寄せてきた。子どもの頃に遊んだ公園の、雨上がりでじっとりと匂い立つ草と土。ほぼ毎日通っている河川敷の、晴れた朝の寝転がりたくなるような輝き。すべてすとんと胸に落ちた。どうしてかははっきりと分からないが、本田氏と私の「雑草が茂る場所」に対するまなざしについて共通する部分があったからかな、と勝手に考えている。

この展覧会での≪リアル(写実)≫は、超絶技法で現実のものを再現することだけが対象ではない。作家があらゆる感覚を通じて受け取ったものを、いかにしてまるっと現実世界に生み出すか。いわば現実にある事象が「作家」という関数を経て再出力された≪リアル(写実)≫を味わうことができるのがこの展覧会の面白さだった。
≪リアル(写実)≫コンセプトが作家ごとに、そして作品ごとに違っている。展覧会の中には人が光(?)に埋もれて影も形もなくなったり、人の腕と花(?)が合体して異形の何かになっていたりと、現実に溢れるものと比べれば「非リアル」な作品もある。それでも、それらは上記の法則に従えば≪リアル(写実)≫なのだ。見たままそのままを写し取ることが≪リアル(写実)≫ではない。自分が観ている世界って、もしかして自分の中でかなり書き換えられている?そんなことを思わずにはいられなかった。

確か「紅羽衣」という種類のツバキ(うろ覚え)

久留米市美術館の周りは花々が溢れかえっている。花壇にはチューリップやネモフィラをはじめ数え切れないほどの草花が埋め尽くし、最近満開になったサクラも、色も形も様々なツバキも、とてもきれいだった。久しぶりに無我夢中で、バシバシと写真を撮ってしまった。

サクラ、お前気が付いたら満開になっていたな

思えば写真を撮るという行為も、自分が現実世界から理想だと思ったものを切り取って保存する作業だ。そういう意味では、今日の展示で観た≪リアル(写実)≫の追求に近いか、同じなのかもしれない。
絵筆や鑿は握れないが、カメラなら何とか構えられる。今日得た気づきも栄養にして、私なりに≪リアル(写実)≫を追求してみようかな。そんなことを考えながら、今日撮った花々の写真を見返している。


そういえば何で久留米市美といえばペリカンなんですか?  芳田

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