見出し画像

両親が考え出した、私への仕送り捻出法

日本の4月は新入生、新社会人が東京に多く集まってくる。そういう私も、今から約40年前に故郷の下関市の農村を離れ東京の大学に進学した。ど田舎の村から東京の大学に子供を送り出すことは、並大抵のことじゃない。経済的な理由で、最初から東京という選択肢が存在しない同級生がほとんどだった。

大学の合格が決まり家族は大変喜んでくれた。母親は、喜びのあまり、買い物袋を落とし卵を割ってしまった。その光景を今でもよく覚えている。夕食でお祝いをしてもらい、両親は床に着いた。その時の夫婦の会話は

“ところで、どうやって東京での生活費を工面する?”だったそうだ。

当時東京でアパートを借りて一人暮らしをすれば帰省の費用も含めると毎月15万円くらいはかかる。普通の家庭で捻出するのはかなり難しい。今思えば東京の子供は大きなアドバンテージをもらっていると思う。

我が家は酪農家だった。酪農家は自分たちで子牛の繁殖をする。雌牛が生まれるとそのままキープして乳牛として育てる。雄牛が生まれるとその後肥育業者に買い取ってもらう。ちなみに日本に出回っている牛肉のほとんどはこの雄の去勢牛だと大学の獣医学科で習った。この肉用の雄子牛の買取価格は当時15万円程度だったそうだ。

両親ははここに目をつけた。毎月4頭子牛が生まれるように繁殖を計画すれば、確率的にいって少なくとも1頭は雄だろうと(90%以上の確率)。この売却益を東京に送ろう。本来、酪農家は雌牛が生まれると喜ぶ。雌牛は牛乳を出す稼ぎ頭になるからだ。しかし、実際にお金を稼ぐまでには時間がかかる。手っ取り早くお金を手にするのは雄牛だった。

母は先日面白い話をしてくれた。ある月、生まれてきた子牛が3頭とも雌牛だった。彼らは4頭目が雄牛であることを心から祈っていたらしい。祈りが通じたのか4頭目は雄だった。夫婦でバンザイして喜んだらしい。父は思わず、『東京行き!』と叫んだらしい。

私の教育は“牛と両親の知恵”によって可能になった。自分の過去を振り返ってラッキーだったと思うことはいろいろあるが、一番ラッキーだったのは、やはり我が家が酪農家だったことだったと思う。

私が得た教訓:自分のラッキーに感謝する。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?