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私が渡米を決意した理由

私は今から32年前に妻と二人で渡米しました。周りの人に、その理由を説明するときにはいつもこう言っています。

”学生の時にサーカディアンリズム(体内時計)に魅せられてアメリカの研究室に来ました。”

でも本当のきっかけは笑ってしまうような理由です。

私の学生時代にソウルオリンピックがありました。当時陸上女子の長距離のメダリストの多くはいわゆる“ママさん選手”でした。私は妊娠すると体内環境が変わり持久力が増すのではないかと考えるようになりました。そのアイディアを指導教授に話たら、トレッドミルのように強制的に走らせるのは良くないから、回転カゴにメスのラットを入れて自由行動を観察したら、とアドバイスをいただいた。

早速実験を開始。すると2つのことに驚かされました。一つ目はその回転数の多さ。多い日には一晩に2万回転。この走行距離は約2万メートル(20キロメートル)。この距離は東京の北の端から東京湾までの距離に匹敵する。もう一つ驚いたのはメスのラットは4日に一回2万回転くらい走るけれど残りの3日はその半分以下しか走らない。その後文献を調べると、この自発活動は性ホルモンに依存していることがわかり、大変驚きました。ラットの性周期は4日だった。妊娠可能な日にはたくさん走り交尾できる雄を探すのだ。

文献を調べていく中で、夜行性ラットは90%以上の輪回し活動は暗期に見られ、その活動リズムは脳内の体内時計に支配されているということがわかりました。その部位は視交叉上核に存在することが1972年に発見されていました。4日周期で起こるこの現象に体内時計はどのように関わっているのだろうと思うようになりました。視交叉上核を電気的に破壊すると昼夜の活動リズムは消失することがわかっていました。そこで体内時計が4日周期で繰り返されるメスラットの活動にどのような影響があるか調べたくなりました。

そんなおり、同じ学科の違う研究室がラットの脳破壊をやっていることに気づきました。そこの学生に話すと難しい手法ではないと。私は意気揚々と自分の研究室に戻り主任教授にその研究室に頼んで視交叉上核を電気破壊していいか聞いて見ました。それは面白いからやってみよう!という答えが返ってくると思っていました。

しかし主任教授の口から出た言葉に私は絶句しました。

下村くん、それは無理だ。もし君がその研究室で脳の破壊実験をしたらそれが君の卒論の一部になる。私には脳破壊実験はよく話からないから、卒論発表会で誰かが脳破壊に関して質問したら我々は君を守ることができない。

私は唖然とした。科学的な興味より大切なものが彼らには存在していた。

“顔を潰さない“という文化が日本にはある。当時博士号を取る学生は、学部の時と同じ研究室を選ぶ。いわゆる”研究室に残る”のである。大学院で違う研究室を選ぶと、主任教授の顔を潰すことになる。すくなくとも私のいた大学にはそのような風潮が当時あった。

主任教授の顔を潰すことなく自分のしたい研究をするにはどうすればいいか?学位を取るまで待って自分のしたいことをする。それまで4年かかる。

大胆にも私はアメリカの研究室に手紙を書いた。全部で7箇所。そのうち2つの研究室が薄給だけど雇ってくれることになった。私は最初に返事をくれた研究室にお世話になることにした。そこで初めて知った。その研究室は当時の体内時計研究をリードしている研究室だった。

もしあの時主任教授が脳破壊の実験を許可していたら、私が今こうしてアメリカにいるかはわからない。振り返ると私の生き方に大きな影響を与えてくれた出来事でした。時として“怒り“は人間を突き動かす大きな力になるようだ。


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