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「あいまいえ」が4年間で育んだ文化の話

あいまいえが10月末におわった。あいまいえの立ち上げから、終わりまでいた長老なのもあり、家がなくなることはやっぱり寂しい。

どんな家だとか、立ち上げの背景は、一緒に家を作ったまっちが書いてくれたので、自分は、ここに書かれていた「対話的な文化」について、あいまいえがどんなものを作ってきたか住人視点で考えてみたい。

対話ってなんだろう

対話やコーチングという言葉が、最近流行っているように思える。こんな広告もあったり。

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話が少しそれるが、とある対話会に参加していた。参加者は自分含め3人。内容は、最近自分の中で気になっているトピックについてただ話すというもの。

自分はそこで、「最近、会話を楽しめなくなっている」ということを悩みとして出した。

誰かの話を聞くのは好きだし、悩みを聞いている時間はいつも全力なのだけど、いまいち会話を楽しめている感じがしない。後からその時を振り返っても、何も思い出せないということも多い。

理由を考えてみると「相手に楽しんで帰ってもらいたい」「聞き上手な人として信頼されたい」「かっこいいと思われたい」という気持ちが強すぎて、自分のいたい姿で、話したいことを話せていない自分がいるのだ。

その悩みを話している時、初対面の参加者の方から「自然に出しているツッコミとか受け答えがすごく面白いよ!」というコメントをもらった。何も頑張っていない、自分をよく見せようというのでない、自然な自分が、実はすごく誰かに価値があったり、面白かったりする、っていうのは目からウロコだし、とても嬉しかった。

思えば、僕があいまいえで無意識に身につけた対話はきっと、頑張ってかっこよく見せようとするようなものでなく、自分が楽しみながらもそれが相手に安心感を与えたり、居心地の良さを与えたりするような、もっと自然なものだったのだと思う。

あいまいえが育んだ対話的な文化

あいまいえ住人で、この家のことを表現する時、よく「対話的」という表現をする。僕が思う「対話的」とは、相手が側にいることを認めながらお互いに生きる、ということだと思う。

一緒に生活をしていると、「価値観の違い」に嫌でも気付かされる。きれい好きかどうか、リビングで皆でわいわいしたいか一人で静かにすごしたいか、何にお金を使うかなどなど、住人六人で六様の生き方があった。

あいまいえの中では、そんな生き方が、ぶつかるのでなく交わっていく。お互いの価値観を可能な限り共存させながら、ぶつかりそうなときには、話して着地点を探す。そういう関わり方を時間をかけて作ってきた。

価値観を尊重するというのは、お互いが影響し合わないということではない。六人がバラバラなのではなく、料理上手な住人に感化されて料理をするようになったり、イベントをよく主催する子の影響で自分が開催者になったり、誰かの転職がきっかけでキャリアを考えてみたり…。そうした相互作用は、自分の価値観・生き方を発揮できる場があるから出来たのだと思う。

何も喋らなくても、生き方をお互いに共有している。それこそが、あいまいえが作った対話的な文化なのだと思う。

あいまいえを出てから

あいまいえを出てから、僕は別のシェアハウスに住んでいる。新しいコミュニティに最初は少し不安があったが、約1ヶ月経った今は、全く別の人と暮らす新鮮さを楽しんでいる。なんだかんだ慣れるものだ。

みんなそれぞれの生活を始めている。暮らしぶりをたまに聞くと、みんな少しずつ慣れてきたようだ。楽しく暮らしているのを聞くとやっぱり嬉しい。

それぞれが生きていく中で、あいまいえが残してくれた対話的な文化は、きっと住人や関わってくれた方々に生き続けてていくのではないかと思う。いつかの同窓会が今から楽しみ。

書きたいことはまだまだあるけど気が向いたらまた。素敵な場所に住ませていただいて、ありがとうございました。

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オープニングパーティのとき

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このまえの卒業キャンプのとき

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