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「エモい記事」批判とジャーナリズムの意義

このところ報道メディア関連のタイムラインで「エモい記事は是か否か」的な議論?が起こっている。

たとえばこちらの論考。

この論考では「実例を挙げるのははばかられるので控える」としつつ「データや根拠を前面に出すことなく、なにかを明確に批判するのでも賛同するわけでもない、(中略)ナラティブ重視の記事」を「エモい記事」と定義し、「すこぶるタチが悪い」と批判している。

Twitter(現X)での反応を見る限り、他の業界関係者(と見られるアカウント)もおおむね「エモい記事」には批判的な人が多いようだ。なかには直球で「嫌い」と表明している人もいる。

私自身も「エモい記事」は基本的に読まない。自分から読みたいと思ったことはない。そもそも自分がデータ可視化やデータ報道、デジタル報道を専門としていることもあり、自分が作ってきた/好きなコンテンツはデータやビジュアルを駆使したコンテンツである。いわば「エモい記事」とは対極のコンテンツを嗜好していると言える。

一方で、今の「エモい記事」の批判のされ方には若干の危うさを感じる。というのも「エモい記事」批判はそれ自体の具体的な不備や難点を指摘するというよりは、報道の「あるべき姿」から離れていることを批判しながらも、その「あるべき姿」が明確に言語化されていない印象を受けるためだ。

結論を先取りすると、いま「エモい記事」に対して向けられている懐疑的な視線は、ほんの数年前にデータ報道に対して向けられていた視線とよく似ている。


今でこそデータ報道、データ可視化、ビジュアルインベスティゲーションといった言葉は(業界の)人口に膾炙してきたが、ほんの数年前までは現在の「エモい記事」のように懐疑的な目を向けられていた。

私は2017年にイギリスの大学院で修士号を取得し、帰国してから配属された東洋経済オンライン編集部で「データ報道をぜひやりましょう」と呼びかけたが、編集部からの反応はなく、興味を持ってくれたビジネス・広告部門の同僚と仕事をしつつ、編集部へのアプローチを伺う日々が続いた。当初は海外の報道機関のように記事・取材担当とプログラム・デザイン担当がチームを組むような形を夢想していたが、このような背景もあって企画から記事の執筆、デザイン、コードまですべて自分で作ることになった(ただし、これが結果的に総合的な視点を育むことにもつながった。このあたりの顛末は講談社現代新書『データ思考入門』でも触れている)。

東洋経済オンラインでは配属された当時の編集長が新しい挑戦に寛容だったおかげで各種のマップやインタラクティブなチャートが日の目を見ることができたが、本格的にコンテンツ制作を初めてから、あるいは転職した後も「データ報道にはどのような意義があるのか?」と疑わしげに聞かれたことは一度や二度ではない。「それはマネタイズできるのか」「PVが取れるのか」と聞かれたことも数え切れない(こういう質問は、たいてい「やりたくない人」から出てくる)。もっと直球に「データ報道は報道ではない」「報道機関の仕事ではない」「チャラチャラしやがって」(←本当です)とも言われたことがある。

それでも東洋経済 / スマートニュース / Googleでの数年間にわたる普及活動や、新型コロナ禍におけるデータへの注目も相まって、着実にデータ報道、データ可視化、ビジュアル報道の機運は高まっているように思う。

このような経験もあって、私自身は報道に関する新しい試みが現れた際の否定的な声には慎重になっている。

特に今回は、上の論考や色々な反応を見る限り「エモい記事」そのものに難点があるというよりは「報道機関がこうした記事を出す意義がない」という点が大きなポイントのようだ。

この「意義がない」「報道機関がやるべき仕事ではない」というのが、データ報道について同じことを何度となく言われてきた立場からすると厄介である。データ報道の意義について問われたことが何度もある、と先ほど書いた。自分が挑戦している試みについて同じような質問をされたことがある人ならわかってもらえると思うが、この質問はロジック的にもメンタル的にもけっこうしんどい。このような質問をしてくるのは、当然ながらその意義に対して懐疑的な視点を持っている人だ。私も出来るだけ丁寧に、海外の事例を挙げたり、例え話を使ったり、過去の報道との類似/相違点を挙げたりして何度も説明してきたが、あまり納得してもらえたことがない。「ふーん、まあ、そういうことにしておきますか」的な顔をされることがほとんどである。私の説明の仕方が悪い面も多々あるだろうが、「社会的な意義」が客観的に定義できない以上、質問される側が大きな説明責任を負うことになる。自分の仕事の意義を常にJustifyしながら仕事をするのはなかなかツラいですよ、という話。

もちろん、「エモい記事」それ自体に何らかの問題があるなら、大いに批判されるべきである。誤解を与える記事、差別的な主張をする記事、……。そうした問題があるならエモかろうが何だろうが批判されるべきだと考えている。しかし、上で挙げた論考でも、Twitterを見る限りでも、「エモい記事」それ自体の具体的な問題点を指摘しているわけではないようだ。

「エモい記事」に紙面スペースや新聞社のリソースを振り向けることで別の重要な記事が出なくなる、という論点も見たが、それならそれで手薄になっている点を具体的に指摘する方が早いかなと思う。データ報道はデータの収集や分析、ビジュアルのデザイン、インタラクションの実装など必要リソースが極めて大きいため、この話をされるとグウの音も出ない。

正直、私は今でも「データ報道の社会的な意義を答えろ」と聞かれたら誰もが納得する答えを出せる自信がない。データ報道が遅ればせながら日本でも普及したのは、文章化された「意義」が確立されたからではない。データ報道の場合は、極めてシンプルに数字が実証してくれたのが追い風となった。2020年、新型コロナウイルス感染症が猛威をふるった年、日本国内の関連する報道コンテンツで最もシェアされたのはデータのダッシュボードだった。

メディアにおいては、社会的な意義やその記事を読むメリットなどを徹底的に議論することにも価値はあろうが、一方で試す価値のあるものは(明白な害を及ぼさない限り)積極的に世に出してみてもよいのではないだろうか。意外なものが受けるかもしれないし、読者の反応によって予想もしていなかった価値を見出せることもある。メディアという業態において私が好きなところのひとつだ。


繰り返すが、私自身は「エモい記事」に価値を見出しているわけではない。むしろ、noteやTwitterにあふれる真偽不明の「エモい」話には辟易している方だ。それでも他人に害を与えるようなものでなければ、コンテンツの多様性は確保されてもよいのではないかと思っている。「私はあなたの意見には反対だが、それを主張する権利は命がけで守る」というやつだ。

もしかしたら、もしかしたら「エモい記事」が何やかやあって新しい報道の潮流となるかもしれない。未来は誰にもわからない。あるいは時代の徒花として数年後には消えるかもしれない。別に誰もが読む必要はないし、必ずしも賛成しなくてもよい。ただ少しだけ新しい試みに寛容になってもよいかなとは思う。それがさらに次の新たな挑戦の呼び水になるかもしれない。


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