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ある成熟した分野において「非正規的な思考態度」を取るということ

【対談:編集後記】

三倉克也さんとの対談を読んで、人がなんと言うのかは正直わからない。新しい発想の種になった人もいるかもしれないし、もしかすると全く意味のない対談に思えた人もいるのかもしれない。

ただ、他人の評価がどうでも良いと思うくらいに、私にとって大切な時間になったことは間違いなく、それを誰かに共有出来ればいいと、そう思っている。

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私は「サッカー監督」という職を求めながら、こうして文章を書いたり、写真を撮ったり、ブランドをつくったり、サッカーという「何か」を通して「表現行為」を続けている。私にとってサッカーとは「表現」であり、それ以上でも以下でもない。監督としてサッカーを「表現」したい、という気持ちが先頭を突っ走り、文章やら写真やら、自分が好きなアートがその背後を追い掛けている。サッカーを「ピッチで表現する」という、私にとって最も重要なテーマを、その他の表現行為が、背後から前へ前へと押し出してくれるのだ。

この帰国期間中、三倉克也さんをはじめ、本当にたくさんの方にお会いさせて頂いた。私は、その一人一人からインスピレーションを受け、アイデアをもらい、そして自分のサッカーに対する解釈を深められたことは間違いない。それと同時に、たくさんの芸術に触れる機会をつくることが出来た。美術館や展示会に足を運び、演劇を観て、建築を見て、映画を鑑賞し、本を読み、そしてもちろんスポーツを観に行った。これらの行為も、私がサッカーという何かを考えるにあたって、大きな助けになった。


『芸術がわからないやつに、サッカーなんてわかるわけない』


そう私に言ったのは、私が尊敬する一人の人間で、芸術を愛する科学者だった。私が「サッカーって、芸術として捉えたら全てが繋がるのか」と思っていたその時耳に入ったその言葉は、私が『芸術としてのサッカー論』を迷い無く始められた一つの理由である。

なぜ私は1年前、「サッカーとは芸術である」と大きな声で宣言をすることが出来たのだろうか?さらに言うと、そこから遡って数年前、なぜ私は「サッカーは芸術なのかもしれない」と思ったのだろうか。

それは私が正しかったからではない。学びたかったからだ。正直言うと、当時の解釈と、今の解釈は大きく異なっている。だからと言ってこれまでのことを修正するつもりもない。ただ、私は日を増すごとに「サッカーとは何か?」「芸術とは何か?」「表現とは何か?」じゃあ「表現をするには私は何をしなければならないのか?」そして「なぜ私はアルゼンチンに居るんだろうか」と深くまで潜り、日々考え続けている。解釈が変わっていくことは自然のことなのかもしれない。

三倉克也さんとの対談は、それらの思考をさらに深いものにした。これまで私が思っていたようなことが芸術の世界と繋がり、そしてサッカーの話に自然と引き戻されていく様は、当事者としてこれ以上ない痛快な感覚だった。サッカーという「表現」をするにあたって大切なことを議論することが出来たように思う。彼と話をして受けたインスピレーションは、私をすでに次なる学習意欲へと掻き立てている。

この場を借りて、お礼を申し上げたい。

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これからの日本のサッカーは、一体どうなっていくのだろうか。私は正直、いくらテクノロジーが発展しても、知識が蓄積しても、世界中からサッカーを学べるようになったとしても、危機感の方が遥かに大きな割合を占めている。でも多分、私がいくらそれを叫ぼうとも、時代の流れがそうはさせないだろうとも同時に思っている。だからこそ私は、今この延長にピッチを求め、「監督としてサッカーをピッチで表現する」ことで、ピッチ上で強く主張したいと思っている。

私は以前「なぜサッカーを芸術だと思うのか?」と、3つの理由とともにTwitterに投稿した。

ここに一つ、追加をしたいと思う。

4.醜いから

醜いと言えばよいのか、汚いと言えばよいのか、どう表現するのが正しいのかはわからないが、学べば学ぶほど、知れば知るほど、どうやら芸術には人間の「欲望」のようなものが表れるようだ。人間の内にある「欲望」は、決して美しいものばかりではなく、むしろその逆である。ただ、その人間の内面にある醜さや汚い部分を、人が何かを通して「表現」する様にこそ、私達は「美しさ」を感じてしまうのかもしれない。そしてそこに受け取る側の欲が合わさって、大きな価値がつけられていく。

そういう意味でも、サッカーは間違いなく「芸術」である。日本人は、サッカーというものを通して表出する人間の欲望を、直視することが出来ているだろうか。醜さから逃げず、考え、悩み抜くことでしか、その先にある「美しさ」を見て取ることは出来ない。もちろん、勝負に勝つことも出来ないだろう。世界のサッカーは、人々の欲望に溢れているのだから。

私はやはり、本物の芸術に触れたときの鳥肌や、震えや感動を忘れることが出来ない。私は、本物の「表現」がしたい。世界に勝ちにいきたい。

三倉克也さんとの対談が、べつに何かの答えを提供しているわけではない。ただ、サッカーを議論する楽しさや、サッカーをサッカーとして考えないことの意味を、一人でも多くの人に伝えられれば、私としてはこの上ない幸せである。

だから僕は「サッカーを自分で捉え直す」という作業にすごく興味があるんです。彼らのレールに乗っかると、彼らの前を通る日は普通に考えたら来ないことになってしまう。彼らの解釈したサッカーを学ぶことが大事なことは間違いないですが、それは後ろを通るためではないので、彼らが「サッカーはこうだよ」と言うものを疑ってかからないといけないと思っています。矛盾しますけど、そのために彼らからサッカーを学ばなければならない。僕は自分でサッカーを考えたい。そこには絶対に「センス」が必要になってくる。

私は対談の中でこのように話した。

私たちは、自らサッカーを考えなければならない。ある成熟した分野において非正規的な思考態度をとることは、誰からも評価されないかもしれないというリスクを伴う。「素人」とあしらわれる可能性もある。しかし、サッカーにおいて重要なのは他人の評価や知識自体ではなく、ピッチで「何が表現出来るか」ではないだろうか。

それが、この対談を通して最も私が伝えたいことである。


前編▼

後編▼


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河内一馬(@ka_zumakawauchi

1992年生まれ。サッカー指導者。アルゼンチン指導者協会名誉会長が校長を務める監督養成学校「Escuela Osvaldo Zubeldía」に在籍中。サッカーを"非"科学的な観点から思考する『芸術としてのサッカー論』筆者。NPO法人 love.fútbol Japan 理事。

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