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勝ち負けにおける「適切な精神的状態」の定義——。 正しいから当たるのか?当たるから正しいのか?

人が何かを成し遂げようとする時、そこには「精神力」や「集中力」が必要である、とはよく謳われる。特に私たちがいる勝負の世界では、それを口にしない人はいないであろうし、またそれは間違いない事実であろう。では、サッカーにおいて“適切な”精神的状態とは、一体どのように定義するべきであろうか?その定義を明確に定めなければ、本来サッカーにおいて「精神力」や「集中力」などの言葉を使うことは出来ないはずである——。


▼前回の記事(Vol.4)


■「技術」と「影響」

前回の記事では『Competition and Struggle Theory(競争闘争理論)』によって分類された『競争(C)』においては、相手競技者から直接干渉を受ける可能性が0%であることから「技術」を実行できる権利が保証されていると言えるため「技術」に軸を置いて理論を展開するべきであるとした。反対に『闘争(S)』においては、相手競技者によって規定内で直接干渉(妨害)を受ける可能性が1%以上であり、また自らも相手競技者に対して同じであることから、技術を実行できることが保証されていない代わりに「影響」を与える権利が保証されていると言えるため「影響」に軸を置いて理論を展開するべきであるとした。

当然、それに伴って「練習」「実践」の持つ意味が両者(競争・闘争)では大きく異なり、サッカーの競技者が「自信」や「自己肯定感」を持つために必要なのは「練習」でもなく「量」でもないことには既に触れた。

ここで「技術」に軸を置く『競争(C)』か、「影響」に軸を置く『闘争(S)』かによって、各競技者が競技中にあるべき「精神的状態」もそれぞれ異なるのではないか?と仮説を立てることができる。言い換えれば「どのように集中した状態が望ましいか?」が、各競技分類によって異なるはずなのである。


■競争(C)における「集中」

これまで書いてきたように、競争(S)と闘争(C)を分ける最も大きな点は「時空間の同異」および「妨害の有無」である。異なる「時間」または「空間」にて競技を行う『競争(C)』に関しては、適切な「精神的状態」を保つために相手競技者による“直接的”な意図した干渉(妨害)を考慮する必要がない。そのため『競争(C)』における「集中」とは「自らが持つ技術を最大限に発揮するために求められるもの」であると、まず定義する。

競争的集中:自らが持つ技術を最大限に発揮するために求められるもの

他者による直接的な干渉がない(出来ない)わけであるから、「己さえ」という考え方を持つことが可能である。「何があろうと己さえ力を発揮することが出来れば」各競技者における最大限の結果を期待することが出来る。


■競争(C)において集中を妨げるもの

では『競争(C)』における(ここでは『個人競争(IC)』)競技者が「集中した状態」を保つことが出来ない、または状態に入れないとすれば、原因は何であろうか?同競技分類には「間接的な妨害」とも言える要素が関与してくることを考慮しなければならない。Vol.2『人間の脳には「“思考態度”のエラー」と「“思考回路”のエラー」が存在する』の中でも書いたように、『競争(C)』には「異空間」で行われる競技(主にレース競技)と、「異時間」で行われる競技(主に記録・採点競技)が存在しており、それぞれを整理して考える必要がある。


①:「同時間にいる他者」による影響
異なる「空間」で行う競争競技においては、各個人の空間に他者が介入できないことを基本としながら「同時間」で競技を行うことになるため「同時間にいる他者」の存在がある。わかりやすく言えば「隣を走る敵」である。例えば目的に対して「先を行く相手競技者」の存在は自身の精神的状態に影響を与える可能性があるし、身体的運動(実行)と「同時間にいる他者」との関係性を無視することは難しい。例えば「先を行く競技者」が「後ろを行く競技者」になんらかの影響を与えているのであれば、これは「競技者が意図せず相手競技者を妨害している状態」と言い換えることが出来る。


②:「順番」による影響
一方異なる「時間」に行う競争競技においては、同時間内に競技者は1人(1団体)であり、相手競技者と時間を共有することがないため「隣を走る敵」の存在がない。その代わり、競技を行う「順番」による影響を考慮しなければならない。例えば「一番最初に行う競技者」と「一番最後に行う競技者」の精神的状態は異なるはずであるし、自身が行う前の競技者の「実行(結果)」によって何らかの影響を受けることは避けられない。自らのパフォーマンスによって“次以降”の相手競技者になんらかの影響を結果的に与えたのであれば、「競技者が意図せず相手競技者を妨害している状態」と言い換えることが出来る。


■競争(C)の競技者が「集中」した状態

以上「①同時間にいる他者による影響」及び「②順番による影響」、またその他「集中を妨げる原因となるもの」を考慮してもなお、『競争(C)』における競技者は先に述べた「何があろうと己さえ力を発揮することが出来れば」といった考え方を持つことが可能である。直接的に妨害を加えられる可能性が0%であるから、例えば相手競技者の結果をあえて見ないようにする工夫も出来るし、①や②によって適切な「精神的状態」を保てないのであれば、それは「自身の問題」と置き換えることが出来る。よって『CST』では『競争(C)』における競技者が求められる「精神的状態(集中した状態)」のことを「内的集中」とする。

競争(C)における集中:内的集中

つまり『競争(C)』における集中とは「周りが見えない」ことであるし、適切な精神的状態になった競技者は「周りが見えなくなる(気にならなくなる)」のである。


■競争における「思考態度のエラー」

無視できない点としては、例えばマラソンという『個人競争(IC)』競技には「相手競技者に触れることは出来ない(各個人の空間が存在する)が、相手競技者のすぐ前(あるいはすぐ後ろ)を走ることによって実質妨害をすることが出来る」という特徴がある。もしもこの特徴に軸を置いて「目的=勝利」を達成しようとするのであれば、『個人競争(IC)』の競技者が「影響」つまり「妨害をすること」に軸を置いてしまう「思考態度のエラー」が発生していると言える。


競争と闘争の均衡

これは、Vol.3『「モナ・リザ」を観る人と「スポーツ」をする人の思考——。“2つの事実”にどう向き合うべきか?』の中で触れた「東洋医学」との関係性を持って説明することが出来る。

①:陰には陽が、陽には陰の要素が含まれる=競争には闘争が、闘争には競争の要素が含まれる
②:陰と陽の均衡が崩れたとき、何かしらの問題が発生する=競争と闘争の均衡が崩れたとき、何かしらの問題が発生する

マラソンに限らず『競争(C)』競技にはあらゆる「闘争の要素」(上図:赤丸)が含まれているわけであるが、それぞれの「バランスを崩してはいけない」ことを理解する必要がある。これは『闘争(S)』にも「競争の要素」(上図:青丸)が含まれていること意味するが、それぞれの競技者が本来のバランスを崩した時、「思考態度(認識→解釈)のエラー」となって競技中における「思考回路(認知→決断)」に問題が発生する。


■闘争(S)における「集中」

では反対に『闘争(S)』に分類される競技おいては、どのような「精神的状態」が求められるであろうか。『競争(C)』とは異なり、『闘争(S)』競技では例外なく「相手競技者による“直接的”な意図した干渉(妨害)」を考慮する必要がある。何度も書いているように、『闘争(S)』は相手競技者と「同時空間」において行われ、規定内で「妨害」を加えることが許されている競技のことであるから、相手競技者によって「影響」を与えられることは避けられない。そのため『闘争(S)』における「集中」とは「自らに関与する影響を最大限に把握するために求められるもの」であると定義する。

闘争的集中:自らに関与する影響を最大限に把握するために求められるもの

他者による直接的な干渉(妨害)があるわけであるから「己さえ」という考え方を持つことは不可能である。己に(内的に)集中し、自らが持つ技術を最大限に発揮(競争的集中)しようとしたところで、相手競技者からの「影響」を避けることにはならない。


■闘争(S)の競技者が「集中」した状態

自らに関与する影響を最大限に把握するためには、競技中に発生するあらゆる「影響を与え得る可能性のある要素」を見る、聴く、触る等の方法で「感じる」必要がある。『闘争(S)』においてそれらの「影響を与え得る可能性のある要素」とは、相手競技者の「実行」から主に発生するものであるため、いわば外側へ向けた「集中」が必要になることがわかる。『競争(C)』に求められる「内的集中」は、競技における「開始から終了までの流れ」を事前に把握できることで有効に働くことを考えれば、もしも『闘争(S)』の競技者が「内的集中状態」で「影響」を受けた場合、適切な精神的状態を保つことは不可能である。よって『CST』では『闘争(S)』における競技者が求められる「精神的状態(集中した状態)」のことを「外的集中」とする。

闘争(S)における集中:外的集中

つまり『闘争(S)』における集中とは「周りが見える」ことであるし、適切な精神的状態になった競技者は「周りが見えるようになる(気付けるようになる)」のである。

同競技分類の場合は特に(影響に軸を置くことが重要なため)、競技中正しく「認知する」ためには「影響の与え方」「影響の与えられ方」をそれぞれの競技別に学ぶ(ゲームの構造を理解する)必要がある。これまでの私の見解から言えば「技術」を高めることよりも遥かに重要であることがわかる。


■サッカーにおける「競争の要素」

サッカーという『団体闘争(TS)』の中にも、あらゆる場面で「競争の要素」が含まれている。わかりやすいのが「フリーキックにおけるキッカー」である。

サッカーにおけるフリーキッカーは一時的に『競争(C)』を行なっていると言って良い。相手競技者が直接的な干渉を加えることが許されていないため「技術を実行できる保証」をされた状態と言える。そのためキッカーは「内的集中」を求め、『競争(C)』の競技者が行うのと同じように「ルーティーン」を行い「集中した状態(周りが見えなくなる状態)」を求める。


■「競争的集中」と「闘争的集中」

さて、重要なのはここからだ。

ここで一つの疑問が浮かんでくる。私たち日本人はサッカーという『団体闘争(TS)』において「適切な精神的状態」を理解することが出来ているだろうか。あらゆるスポーツ競技を「全て同じ」と仮定して「精神」を捉えているのではないだろうか。私たちサッカーに関わる日本人が口にする(求めている)「集中力」や「精神力」とは、一体どのようなものだろうか。

私は「日本サッカーは適切な精神的状態を誤まって解釈している」と、この記事または今後の『芸術としてのサッカー論』をもって主張する。その理由を考える上でヒントになる以下参考文書を引用しながら、主張を展開していきたい。


■西洋人と日本の「武術」

西洋で生まれた「サッカー」という『団体闘争 (TS)』を正しく認識するために、日本で生まれた「武術」と比較することは必須である。戦前に当時の東北帝国大学に在籍した経験を持つ哲学者オイゲン・ヘンゲルの著書『日本の弓術』は、その上で非常に大きな意味を持つと考えている。当然これだけをもって「日本はスポーツを武術と同じように解釈しているからサッカーを誤まってしまうんだ」と乱暴に言うつもりはないが、本書は以下の点で無視することが出来ない。

1.日本人ではなく西洋人が言語化したものであるため
2.武術を(本当の意味で)習得した西洋人が書いたものであるため
3.日本語への翻訳に非常に気を使い繰り返し翻訳されているため
4.当時の日本人(武術家)が本書の内容を認めているため


■日本人にとって「武術」とは

本書のテーマである「弓術(弓道)」という一種の「武術」を『CST』で分類すると『個人競争(IC)』に該当するが、本書の冒頭に書かれている「武術」の解釈を読むと、そもそも「武術」とはスポーツ競技とは異なるものであることがわかる。

日本人は弓を射ることを一種のスポーツとして解しているのではない。初めは変に聞こえるかも知れないが、徹頭徹尾、精神的な経過と考えている。したがって、日本人の考え方によれば、弓を射る「術」とは、主として肉体的な修練によってだれでも多少は会得することのできるスポーツの能力、すなわち「中たり矢」がその標準と考えられるような能力ではなく、それとは別の、純粋に精神的な鍛錬に起原が求められ、精神的な的中に目的が存する能力、したがって射手は自分自身を的にし、かつその際おそらく自分自身を射中てるに至るような能力を意味している。

本書の中では、師である阿波研造氏が「これは言葉にすることが出来ない」と言うのに対して、オイゲン・ヘンゲル氏が言語化を試みる姿が度々記録されており、私たち日本人と西洋人の特徴を垣間見ることができ非常に興味深い。

言葉を無上のものとして崇拝するヨーロッパ人の考え方に突き当たると、意思疎通のどんな可能性も破壊されてしまうのである。言葉に言い表すことのできない、一切の哲学的思弁の以前にある神秘的存在の内容を理解することほど、ヨーロッパ人にとって縁遠いものはない。

この違いは、日本人がサッカーというスポーツ競技を向上させていく上で、良いか悪いか、西洋人とは違う道を辿る可能性があることを示唆している。


■弓術とは「内的」な仮託である

私はこの記事の中で『競争(C)』における「集中」とは「内的集中」であると書いたが、それについて考慮するに値する描写を引用したい。

じじつこのような、射手の自分自身との対決は、あらゆる外部に向けられた対決——例えば敵との対決の、実質上の真の根底である。外部に向けられた対決がなくなって以来、弓術の本質は初めてそのもっとも深い根底にまで還元され、その意義も明らかになって来たのである。
したがって弓術は、弓と矢をもって外的に何事かを行おうとするのではなく、自分自身を相手にして内的に何事かを果たそうとする意味をもっている。それゆえ、弓と矢は、かならずしも弓と矢を必要としないある事の、いわば仮託に過ぎない。目的に至る道であって、目的そのものではない。この道の通じるべき目的そのものは、簡単に言ってしまえば、神秘的合一、神性との一致、仏陀の発現である。

弓術の世界には「正射必中」「正射正中」という言葉がある。言葉の定義は公益財団法人全日本弓道連盟によると以下のようになる。

「正しい射法で射られた矢は、必ず中る」

つまり「正しく射れば矢は的に(自然に)当たる」であろうし、「矢が的に当たったとしても正しい射法でなければ評価に値しない」というような解釈である。


■サッカーに「正射正中」の概念はあるか

つまり「内的」であること(内的集中を保つこと)と「目的(的)」はいわば無関係であると言える。むしろ「集中を妨げる原因になり得る」のが「目的(的)」なのだ。私たち日本人は、サッカーという競技を解釈する上でも、また実際に(ピッチで)競技を行う(実行する)上でも、このような考え方に無意識に偏ってしまっている可能性はないだろうか?

各競技の特徴を見れば『競争(C)』に分類される競技においては「正しいことをすれば的に当たる(目的を達成できる)」と言えるし、『闘争(S)』に分類される競技においては「的に当たれば(目的を達成したならば)それが正しいことである」と言うことが出来る。

サッカーという競技には、“仮に”「技術(動作)」における「正しい」が存在していたとしても(どのように蹴るのが正しいか等)、「目的を達成することに対しての正しい」は決して事前に存在し得ないはずであるから、サッカーを弓術のように解することは不可能であるここで「認識」を誤ると、ここから先の「認知」において、芋づる式に誤ることになる。その理由をもう少し深く説明していきたい。


■サッカーにおける「目的」とは何か?

スポーツ競技における「目的」とは「相手よりも優れた成績を残すこと=勝利」である。この「目的」を排除した場合「競技(競う)」という概念が消えるため、ただの「スポーツ(≒運動)」になる。したがってサッカーにおける「目的」とは「相手競技者よりも多くの得点をあげる(ゴールを奪う)こと」であることはルール上明白である。さらに弓術における「目的物」が「的(まと)」であるように、サッカーにおいての「目的物」は「ゴール」である。

ここで「目的(目的物)」に対する「思考態度(認識→解釈)」が『競争(C)』と『闘争(S)』ではそれぞれ異なることを理解しなければならない。

競争:集中する為(適切な精神的状態を保つ為)には「目的(目的物)」を意識してはならない
闘争:集中する為(適切な精神的状態を保つ為)には「目的(目的物)」を意識しなければならない

ことサッカーにおいては、競技特性上特に「目的(=勝利=ゴールを奪う)」および「目的物=ゴール」を意識しなければならないとここで断言する。その理由を今回のテーマの観点から説明したい。


■何が「影響」を与えるのか?

私はこの記事の中で、サッカーのような『闘争(S)』競技における「集中」とは「外的集中」であり、「自らに関与する影響を最大限に把握するために求められるもの」であるとした。そのために「影響を与え得る可能性のある要素」を見る、聴く、触る等の方法で「感じる」必要がある(つまりそれをより感じられる状態が適切な精神的状態である)と書いたが、これには抜けている点がある。「““目的を達成するに際して””影響を与え得る可能性のある要素」をより多く把握しなければならないのだ。

つまり、サッカーにおいて「自らに影響を与え得る要素」は数え切れないほど存在しているが、中には「目的を達成するに際して把握する必要のない影響」も多く存在している。例えばチームメイトがまさにゴールを奪おう(目的を達成しよう)としている瞬間に、あなたに何らかの「影響」を与えている相手競技者の存在は、「目的を達成するに際して」把握する必要がないと言える。ゴールが空いている状態でゴールから外れた場所に位置している相手競技者に何らかの対処をする必要性もない。理論上「ゴールを奪う(目的を達成する)」には、「外的集中を保ちながら、目的とは無関係の影響を除外しなければならない」のである。

よって、サッカーにおいて「目的(=勝利=ゴールを奪う)」および「目的物=ゴール」を意識しなければならない理由は『「目的」を意識した状態でなければ「無関係の影響を除外する」ことが絶対に成し得ないから』である。


■サッカーにおける「適切な精神的状態」の定義

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