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中編・短編小説集

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kazumaの中編・短編小説集です。
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記事一覧

「川に向かって、言葉を吐いて」

 ねえ、何から話そうかしら。あたしね、こういう時って、どんな風に喋ったらいいか、分からなくなるのさ。何を喋ったって、ぜんぶ同じって気がするの。あんたに話そうと思うとね、あたしはいつも森の中にいるみたいだわ。どんなにあたしが大きな声で喋ったって、あんたの耳まで聴こえやしないから。ねえ、聴こえてる? あたしの声が。ちゃんと聴こえてる? ──返事くらいしてよね。すぐに見失っちゃうからさ。あたしね、もっと遠くへ行きたいんだ。こんなところ、ほんとは一秒だって立っていられないのよ。目眩が

「君は花束を忘れた」

 気が付いた時には列車に乗っていた。覚えているのは八月の暑苦しい日に一番線のホームにやってくる列車の光を見ていたことだ。頭上の電光掲示板には「回送列車」と書かれていた。それが何時何分発だったとか、どの方面に向かう列車だったとか、そういうことは覚えていない。次の瞬間には銀色の冷たいアルミの手すりを掴んでいた。車窓からは等間隔に現れる電柱と架線が流れていって、いつ終わるとも知れない線路が続いていた。車体はつねに緩やかに傾斜しているようで、線路の上を走る車輪が軋む音がした。辺りを見

「五分前に終わった」

 世界は五分前に終わった、と壇上の男が言った。演説台には"underson"というネームプレートが置かれている。この男、アンダーソンの背後にはエマ夫人が控えていて、両手を奇妙な形に組み合わせ、祈りを捧げるように片膝をついていた。アンダーソンはマイクを手に取り、スピーチを続けた。会場のホールには約三千台のカプセルマシンがあり、人々はその中に収容されながら、この地球最後の自由人による演説に耳を傾けていた。 「そうです、五分前に我々の世界は終了したのです。あなた方全員がこのエンド・

「私たちはさよならと言った」

 一九九九年の夏、雪村澪は学舎を繋ぐ渡り廊下の上で宙に浮いていた。首元に赤いリボンの付いた、半袖の白いサマーブラウスと学校指定のチェック柄のフレアスカートの裾を揺らしながら。大縄の端のスティックを持った女子生徒が声を張り上げている。 「いいよ、澪。その調子!」  雪村はわずかに汗をかきながら、縄の間をするりと抜けていく。赤い上靴のソールが渡り廊下のリノリウムの上を跳ねた。頬を上気させ、十四歳の快活な少女だけが見せる、特有の笑みを浮かべている。渡り廊下三階のアーチ状に開けた天蓋

「バナナフィッシュのいない夏」

 ある男が浜辺の階段に腰掛けている姿を望は何度も見かけた。その男はいつも朝早くにやってきて、ちょうどきっかり七時になる前にいなくなる。海の底に引きずり込まれる貝殻のように跡形もなく姿を消し、翌日には何事もなかったかのように階段に腰掛けている。望は浜辺の遊歩道をひとりで歩いていた。学校指定の紅と白のラインの入ったジャージを、二の腕が見えるまで捲り、先を歩く犬のカノンの後を追って。早朝の遊歩道には殆どひとがおらず、すれ違うのは目深に帽子を被ったランナーばかりだ。塩気のある潮の匂い

「ハイライトと十字架」

 壁掛け時計の針が秒を盗む。午後十一時五十八分。オフィスビル八階。真白杳は事務用チェアの背もたれに体を預け、天井のタイル目地を眼で追っていた。壊れた蛇腹のブラインドの間から月の光が僅かに差し込んでいる。真白はデスクトップパソコンのキーボード上に指を乗せたまま、無意識に人差し指の腹で同じキートップを叩き続けていた。画面上には、繰りかえされる『G』の文字があった。時計の秒針が、はめ込まれた硝子の内側で滑らかに廻りつづけた。  窓際の座席には既にマグの底で干涸らびている徳用紅茶のテ

『赤い風船、笑うピエロ』

 遊園地の一角で、赤い風船がひとつ、子どもの指先を離れ上空へと向かって昇っていった。 「おかあさん、あれ!」  デニムのつなぎを着た少年は、いまにも泣き出しそうな顔でつま先立ちをし、飛んでいった風船を指差している。西洋風の造りものの城の壁を這うようにして、風船は高く昇っていく。その少年の傍らでピエロの格好をした、太田という男が、なすすべもなく頭上を見上げていた。  パレードの号砲が鳴り響く。指を差していた少年は途端に目を見開き、たったいま正気に戻ったかのように、背筋を伸ばし、