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【ひよわな校長の処方箋68】名前をつけると受けとれる

「校長先生、教室で暴れている子がいます」小学校では、そう呼ばれて教室に駆けつけることがあった。教員の数はぎりぎりである。職員室には誰もいない。
 教室に行ってみると、担任の先生が必死で男の子を押さえている。周りの子の情報によると、友達に何か言われて切れたらしい。とりあえず抱きかかえて教室から連れ出す。空いている静かな部屋に行って、抱きかかえたまま、「悔しかったんだよね」と話しかける。すると、こわばっていた彼の体から力が抜けた。隣に座らせてもう一度言う。
「そうか。悔しかったか」
 彼がうなずく。暴れているときは、もう何が何だかわからない様子だった。周りが「暴れちゃダメ」とか「話しよう」とか言っても全く聞かなかった。実際、彼自身もわけがわからなかったのだろう。その、よくわからない自分の気持ちに「悔しい」という名前が付けられたことで、自分の気持ちを受けとることができたのかもしれない。
 この手はよく使う。怪我をして泣いている子には「痛いね」と言う。仲間外れにされて怒っている子には「さみしいね」と言う。
 中学生には、もう少し論理的に話せる。「そういうのはね、『つらい』っていうんだよ。そういうときは、『つらいなあ』って口に出して言ってみるんだよ」
 自分の気持ちに名前を付けると受けとりやすくなる。
決めつけられるのが嫌な年ごろになったら、選択肢にしてやる。「今の気持ちは『苦しい』?それとも『悲しい』?」
ある中学生にそう言ったら「両方」と言って泣き出した。
 いい気分のときも、その気分に名前を付けてやると受けとりやすくなってお互いに共有できる。だから乳児に何か食べさせるときは「おいしいねえ」と言ってスプーンを口に持っていく。「うれしいねえ」と言って笑って見せる。
 お互いに分かち合った言葉には共感を呼び起こす力がある。つらい時、楽しい時、それを分かってくれる人がいるということが生きる力になる。
 大人でも同じだ。自分の学級の指導がうまくいっていない教師から様子を聞く。なかなか難しい状況でこちらもいいアドバイスが浮かばない。でも「そりゃ苦しいねえ」と言う。その一言がその教師をちょっと救う。自分の気持ちにちょっとゆとりが生まれ、何かを思いつく隙間ができる。
 校長室にいると独り言が多くなっていけない。しかし、言葉にすると、積み重なって混乱した仕事が整理されて、一つ一つ受けとりやすくなる。いや、なるような気がする。

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