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kyoto graphie 2020

はじめに

新型コロナウイルス感染拡大により
開催時期を半年遅らせた
kyoto graphieが無事に閉幕した。

京都の大学に通っている私にとっては
学生として迎える最後の
kyoto graphieだった。

通算4度目の参加となる
今年のkyoto graphieからは
例年以上に強いメッセージ性を感じた。

記憶や感じた事を
自分が忘れてしまう前に
ここに記しておきたい。

今年のテーマである「VISION」について

今、世界中で近視の人口が増加している。知っての通り、近視とは近くは視えるが遠くは視えにくい症状のことを言う。それは皮肉にも、目先の利益を優先し、犠牲を置き去りにしながらひたすら経済発展を目指した結果、社会を分断し自然環境を瀕死の状態にしてしまったこの世界の実状と酷似しているのではないだろうか。そして今、ウィルスという目に見えない恐怖が世界中を席巻し、グローバルな時代に自国だけでは対処できず、世界が団結しなければ解決できない切迫した問題に直面している。「VISION」は目に見えるものだけでなく、想像して見るものも意味する。世界は、この異例の2020年にいったいどんな未来の「VISION」を見るのだろうか。KYOTOGRAPHIE 2020では、多様な視点によって作られたさまざまな「VISION」を集めた。世界を変えるには、まず自分たちの「VISION」を変えなければならない。個人の「意識」の集合体こそがこの世界なのだから。一人一人が世界の問題を「他人ごと」でなく「自分ごと」として考えることができたとき、世界は必ず変わる。Let’s share our VISION! (公式サイトより引用)

今年のテーマは、言わずもがな”コロナ”だった。
写真祭において、人々に問い、投げかけるテーマとして
「VISION」という言葉を選んでいる。
この前文には、とても痺れた。

VISIONには、目に見えるものだけでなく、
想像して見るものも意味するらしい。
一つ一つの目の前にある写真から
どんな想いを馳せる事ができるのか。

今年は、それが(自分にとっての)鑑賞ポイントだった。

ぜひ、公式サイトの写真と付き合わせて
暫しの間、鑑賞を楽しんでもらえたらと思う。

https://www.kyotographie.jp/

ピエール=エリィ・ド・ピブラック

京都府庁旧本館 正庁という100年以上、
京都の歴史とともにあった場所で、
3つの展示を行なっている。

私がここで感じた事は、以下の3点だ。
①バレエの空間と、旧本館が混じり合った格調高さ
②バレエの起源に思いを巡らせた
③動作が、動きを、意味を持つという事

彼にとってのVISIONを最後に記しておく。

VISIONとは、鑑賞者が他者を理解する手がかりをもたらし、写真そのものを見るだけでなく、さらにその先へ想像力を働かせる事ができる物事の見方や感じ方だと思っています。


オマー・ヴィクター・ディオプ

こちらも京都府庁旧本館 旧議場にての展示。
個人的に面白かったTOP3。

彼自身が被写体となって
過去の歴史上の偉人を模倣し、
そこに(何故か)サッカーの要素を加えた作品である。

凛々しい姿の中に、キーパーグローブを発見した時は、
思わずふふっと笑ってしまった。
そんな遊び心があるだけでなく、
彼の写真には普遍的なメッセージがある。

モデルを雇うのではなく、作品において私自身が被写体となることを選んだのは、私たちはみな4万年という歴史の只中にいる、という時間的な繋がりを私自身が感じたいと思っているからです。私たちが存在しているのは、他の人々が過去に存在したからであって、私たちがする事はどんな事でも、過去に起こった事に影響を受けているのです。私があなたと繋がっているように、私たちはそもそも一つであって、みな同じ恐怖、同じ病気を抱えていて、最終的には、墓の中で、空気だとか水の中だとか、同じ場所に還っていきます。私たちは同じ人間という種であって、黒人だとか、白人だとかは関係ないと思います。

私たちは、過去の人々がいてこそ、存在する事ができる。
自分1人だけではない、何か大きな流れのような物の
一部に私たちもいるのだという事を
感じさせてくれる時間だった。

そして、彼の考えるVISION
今回の展示に重ねた思いを最後に紹介する。

私たちがともに未来を見据える時に、何か問題が起きてしまうのは、お互いの過去の歴史を認めていないからです。もしあなたが、私のこれまでの人生について知りたくなかったとしたら、私たちは同じ未来を共有できないでしょう。私たち人間は、お互いにどのように繋がりを持てば良いのかさえわかっていませんし、端的にお互いのことを知らないが故の憎しみあいが存在してしまっています。「Diaspora」シリーズは、このような社会問題に対する私なりの働きかけでもあり、人々の関心を集める手法でもあります。


片山真理

この作品は、今回衝撃を受けたTOP2

”障害”に対する自分自身の根底にあるものを
考えさせられる時間だった。

中学までは、知的障害を持った子と
クラスで一緒に勉強をしていた記憶がある。

見た事、話した事、触れた事がある
そんな”障害”に対して、
この写真を見た時、「怖い」と感じた。
反射的に目を逸らしたくなる自分がいる事に気づいた。

ただ、冷静に考えると、
”障害”とは悪いものなのだろうか。

ディオプも言っていたように
身体的に違いが生じていたとしても
同じ人間である事に変わりはない。
優劣でもなんでもないし、
それは人の価値を決めるものではない。

そもそも、人の価値というものがあったとして、
その価値は他人によって決められるものではない。

そんな事を感じた時間だった。


ウィン・シャ

例年のkyoto graphieに一番近い印象の写真展。

情緒あふれる一枚一枚の写真
何を物思いに耽っているのか
何気ないのだけれども、
場所や時代の空気感を感じさせ、
それが絵になる写真でもあった。

彼にとってのVISION

VISIONの意味は、私にとって信じる事だと思っています。かつて私は何かに取りかかる時、ある信念があったとしても、それを口に出そうとはしませんでした。その信念が、誰かの二番煎じになる事を心配していたのです。ですので、クライアントのイメージの追求を第一にしていました。しかし今は、私も年齢を重ね、自分自身の心と向き合うようにしています。私は私のVISIONを手に入れるために、私自身の心の声以外にはあまり耳を傾けないよう、もっとシンプルに、自分の心と直接繋がろうとしています。

マリアン・ティーウェン

建築を彫刻に作り替える。

2棟分の京町家を破壊し、
そこから得られた材料のみを用いて
空間を再構築したインスタレーション。

既にそこにあったものだけで、
アート自身が完結するのが面白かった。

使われているものは、
以前と何一つ変わらないのだけど、
再構築によって、
あらわになる空間の奥行き
ジャンル分けされた材質に意識が向く。

そして、町屋というのは
意外とシンプルな作りだと知る。
使われてる材料が多くないのだ。

鉄筋コンクリートの登場によって
建築の表現方法は変わったが、
その前時代の建築である町屋。

マリアンによる破壊・再構築によって
日本家屋の素晴らしさを、
再発見できた時間であった。

世界中にある彼女の他の展示作品も見てみたい。
彼女の思想が現れている一節を最後に紹介する。

建物の中に、新たな視点を創出するのです。これは建物を解放する行為です。というのも、すべてが元々建物の中に存在していたものだからです。普通、それらは目に見えません。家の中は小さな部屋、小さな空間に区切られているからです。私はそれを解放し、同じ建物の中に新たな視点を生み出します。


福島あつし

今回衝撃を受けた作品の二つ目。

神奈川県川崎市で
高齢者専用のお弁当配達をしながら
高齢者の姿を捉え続けた写真。

ここにある写真を一見すると、
都市部に住む高齢者の”孤独”を強く感じる。

1人でお弁当を食べるなんて辛そうだな
散らかった部屋の中、片付けもままならないのかな

そんな事を考えながら写真を見て回ると
福島の言葉が目に止まる。

僕はようやく知ることとなった。10年もの間、一眼レフを首からぶら下げて弁当を配達し続けた。その苦しみ、罪悪感、僕を追い込んでいる物の正体。それは僕自身の思い込みに他ならなかったことを。

胸がギュッとなった。
自分にも心当たりがあったからだ。

自分が今回衝撃を受けた2つというのは、
自分の無意識に気づいた瞬間だった。

福島は最後にこう綴っている。

人間が生きるということはこんなにも力強く、粘り強い物なのかという驚きだった。明日訪れるかもしれない死の影ではなく、生きている姿そのものだった。僕にとって、お客さんたちの姿は自分にもいつか訪れる可哀想な姿ではなかった。希望そのものだった。


おわりに

VISIONという言葉にふさわしい
色んな物を見せてくれた
今年のkyoto graphieであった。

私にとってのVISIONとは、
物を見ようとする自分自身の心なのではないかと感じた。

自分というフィルターを通して
ありとあらゆる物との反応が起こる。

そこには、自分だからこそ感じ得るものがある。
同時にそれは、自分自身の物の見方を教えてくれる。

瞬間的に、いやだ!すきだ!と感じた時に、
その反応が起こるのはなぜだろう?と考える所に
自分のVISIONが掴むきっかけが潜んでいる気がする。

また今年は、公式サイトを通じて
アーティスト達の声を数多く聞くことができた。

出来上がった結果としての”写真”だけでなく、
そこに至るまでの”過程”における彼らの考えが、
作品の理解をより促してくれたように思う。

今年のkyoto graphieは、自分にとって特別な体験になった。
来年は何を見せてくれるのか
自分にどんな反応を起こしてくれるのか
楽しみにしながら筆を置きたいと思う。

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