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触れてはいけない20年越しに再評価されている鬱ゲー【serial experiments lain】


一部界隈でカルト的人気を誇っているゲーム「serial experiments lain」。

ゲーム内容はあまりに未来的で難解なために発売当時98年のレビューは酷評だったらしいが、その内容が徐々に現実と共に追いつき再評価され始めているレトロゲーム。中古相場ではプレミアム化し現在は5万円以上で取引されている。

インターネットが普及しオンライン時代の集合的無意識と身体性をテーマに描かれた内容だが、結末はあまりに暗いため病んでいる時のプレイは禁じられるほど危険なにおいのある作品。


プレイヤーは、ネットワーク内に散らばった lain に関する記録を集め、断片的な記憶をたどって lain の日常生活と彼女の秘密に近づいてゆく。
ゲームの中でできることはあくまで「ファイルの再生」までであり、それぞれの情報が持つ具体的な意味まではほとんど窺い知ることはできない。

「記録ファイル」を集めプレーヤー自らが物語を紡ぐ


プレイヤーはネットワーク内に散らばったレインの記録を集め再生していくのが目的。特に何かを操作することもないため果たしてこれがゲームなのかも疑問は持たれる。

登場人物は主に精神を病んでしまったレインとカウンセラーの柊子の二人の
会話と日記がメインとなる。しかしその語り口はあくまで「個人の日記」であることがほとんどのため、そこに「客観的な事実」を語っているわけでもないのがこのゲームの肝でもあり、難解にさせる部分でもある。

実際にレインは中学に入学し友人である「美里ちゃん」について自分の日記や柊子に語っているが、後の柊子の調べでは「美里ちゃん」という人間は存在していなかったことが明らかにされる。

しかしレインの記録の中では「美里ちゃん」の細かな描写や二人のストーリーは確かに語られておりプレーヤーの中でも存在していた。

つまり集めたファイルのレインの日記には信憑性はなく、単なるネット上に散らばった「記録」を集めた結果としてプレーヤー自らがストーリーを考察し結び付けていくという構図になっている。

それは「記録」のファイルを集めて物語を紡ごうとするプレーヤー自らのための行動であり意思によって成立する。

ゲーム内で語られるファイルは「記録」であり記憶や真実とは限らない。

ただその記録の集合体を人々が勝手にその人物の物語を成立させた結果その人間がその人自身の中で存在し始める。この構図自体がレインの考える仮想空間での思想でもある。


「serial experiments lain」こそレインの実験媒体


レインは記録上中学に不登校になるにつれ家族関係は悪化し、父親から買い与えられたパソコンをきっかけにハッキングや失踪した父親のロボットを作り上げるほどのネット知識を磨き上げていく。

また精神科医の柊子との関係性も崩れていく。レインは柊子の記録のハッキングや会話を重ねるにつれ精神医学の知識や哲学も吸収していき私生活が全く上手くいかない柊子はレインに話を聞いてもらうまでに立場が逆転。

柊子がつけていた患者のカウンセリングの記録もレインのクラッキングによって思考が改竄されレインの思想に多く触れた柊子は自我が徐々に侵食されていくことを示し始める。

そして柊子が記録していたレインの患者記録ファイルは未来に日付されていることに気づき、レインの「本当の存在」に疑いを本人にぶつけたままこの世を去る。

つまりレインはゲーム開始時から既に現実と仮想空間上に存在していたのかの真実が最初から曖昧になっていたと思われる。このゲームのシステム自体がレインの実験であり、タイトル回収ということなるのだろう。

記録の中でレインは銃を自らに向けて自殺している。実際にそうなのかは分からないが記録上ではそうなっている。
そして電脳の中でも自らの存在が生き続けられることを確信し身体はなくともデータの中で生き続けることを彼女は選んだ。彼女に出会った人間たちも存在を思うほど思想が染まっていき同じ選択を取るようになる。

プレーヤーはレインに直接会うこともなければ動いてる様を見ることもほとんどないが記録によって彼女の思考や声を知っている。

彼女がいなくともこうして存在を語っているうえで彼女は私の中でもいま存在している。柊子も私生活がずっと上手くいかずVRのような機器で仮想空間に逃げ始めて現実との境目が曖昧になりながらも確かにレインに出会い存在していた。

レインの膨大な記録やデータに触れ物語を推察している時点で岩倉玲音というキャラクターが作成されたということ。それが彼女の実験であり電脳で生きるという確信であった。孤独に悩んだ柊子もその中で存在し続けられることを救いに感じたのであった。

そしてレインが自分の中に存在し「生き続ける」ということは、彼女の精神性までが自分の中に侵食されてしまう時でもある。病んでいる時にプレイしてはいけないというのはそういうことなのだろう。柊子の最後と同じように。


時代と共に追り始めたレインによる存在論の問い

レインはこのゲームの中で「記録」と現実の「記憶」の狭間を問いかけている。

インターネットが普及しパンデミックによって人間が分断された中でさらに拍車がかかり、生身の人間と会う機会は少なくなり情報という「記録」でお互いを認識しあう機会が当たり前になってきた。

直接人間と会ったり会話をすることは特別感も感じやすくなったが、それにおいても結局は同じ情報の交換であっても受け取る人の認識によってぞれぞれ受け取り方や印象も変わる。

結局そこにその人の精神性や認識で変わるならば記録と記憶の違いで人間の存在認識自体は変わらないのではないのだろうかと彼女は既に問うていたと考えられる。

身体性を放棄したのも直接的なものを上に見るのではなくその記録のネットワークの中で生きることと存在自体に特別性はないと言いたかったのだろう。

この世からいなくなって会えなくても形見や手紙でその人がそんざいするという人間の能力もあれば、ネットと現実との認識が曖昧になり身体性が乖離しすぎて大変なことになってしまう人もいる。

情報と人間が存在することの相関性をインターネットが登場したばかりの当時から予言していた意味ではようやく現実が追いつき再評価されているのもうなずける。

最近ではAIの発展も凄まじく得体のしれない集合知に人間が違和感なく群がっているのもレインの仮設はより現実に帯てきたと思える。
仮想空間の拡張もますます広がっていく中で己を示しにくくなっていると感じやすい社会になりながらも、レインによる存在論の普遍性に再評価する流れがまた訪れるのだろう。













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