絶対に咬まない ~動物病院のカルテ~

「この子は絶対に噛まないから大丈夫ですよ」
ご家族の方が、ご自宅の犬を指していうことがある。
診察中に、獣医や看護師を噛むことはないですよ、という安心させるための声掛けであろう。
そんな時に羽尾先生は、決まってこう言う。
「ソウデスカ、ソレハスゴイデスネ」
無理やりにつくった、無味乾燥の笑顔とともに。


羽尾先生が獣医としてはまだまだ新米だった頃、エアデールテリアという大型犬を診察する機会があった。
先輩の獣医たちに色々なことを習って、やっと一人で診療に出られるようになったところだった。
「エアデールテリアは表情がわかりにくいから気をつけなよ」
診察前に先輩獣医がアドバイスをしてくれた。
診察中に動物が獣医や看護師を攻撃してくることは、しょっちゅうある。
それを上手くかわしたり、なだめたりしつつ、診療をする。
表情がわかりにくいと攻撃してくる前兆が分かりにくい。
だからこそ他の犬種よりも、もっと気をつける必要がある、と言える。

ちなみに、獣医は咬まれるのも仕事のうちだ、ということを本気で言っている人がいるが、正気の沙汰ではない。
噛まれたら仕事能力は落ちるのに、それを言い訳にはできない。
「ハムスターに噛まれたので、チワワの脾臓摘出手術は延期します」
「採血を失敗したのは、猫に引っ掻かれた指が痛いからです」
などと言ったところで、相手は許してくれるだろうか?
答えは、否、である。
つまり、獣医は《絶対に動物に咬まれないように》気を付けなければならない。

「コイツの奥歯が黒くなっちゃってね。虫歯になっていないか見て欲しいんだよ」
連れてきた初老の男性がそうのたまわったときに、羽尾先生は、(マジで?)と、顔に出しそうになった。
いや、少し出ていたのだろう。
男性は励ますように言った。
「大丈夫。絶対に噛まないから!」
(まさか、怖がってないよね?)というような表情を浮かべているのを見て、羽尾先生は変な安心をしてしまった。
いや、半信半疑ではあったので、変な意地というべきか。
「じゃぁ、ちょっと見せてね」
そう言って唇をめくったのが利き手の右だったことが、後々まで悔やまれた。
エアデールテリアはノーモーション、すなわち、表情を変えたり唸ったりなどという何の前触れもなしに、羽尾先生の右手に噛みついた。
ゴキン!
(あ、やばい。右第二指中節骨がやられた)
瞬間にそう思った。
(そりゃあ、そうだよな)
次に浮かんだのがそれだったが、残念ながら後の祭りだ。
全治二か月の骨折。
診察も手術も出来ない、ポンコツ獣医の誕生する瞬間だった。
とは、本人の弁である。
流石に同僚や同業の友人知人も、そこまでは言わない。
しかし、多少の違いはあれども感想は(そりゃあ、そうだよな)である。
もちろん心配や同情はしてくれるのだけど。

羽尾先生は、久々に獣医の心得ノートを開いた。
これは、新卒で働き始めてから、作り始めたものである。
左手で1ページを使ってデカデカと書いたのは、実にシンプルな文言だった。

「噛まれない」



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