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糧 ~動物病院のカルテ~

後悔先に立たず。
もしも、あの時、ああしていれば。
人には誰しも、そんな風に思う過去が一つや二つ、思い当たるのではないでしょうか。
羽尾先生にも、そんな過去があります。
これは、獣医として駆け出しだった頃の、取り返しのつかない失敗です。
今になって思い出しても、苦くて、苦くて、苦くて。
夜中に一人でいると、頭を抱えて小さく叫んでしまうような。
この出来事の前と後とで、羽尾先生は別の人間になったと言っても過言では無い、そんなお話です。

「しばらく前からあんまり食べないのよね」
羽尾先生が久し振りに実家に帰ったら、母親がそんなことを言ってきた。
「この子が食べないなんて、うちに来てから初めてだよね」
普段はふざけた事しか言わない父親の口ぶりから、相当心配な状況だということが感じられた。
そういえば、羽尾先生が帰省する際にはいつも真っ先にかけて来るはずのクロスのお迎えが、今回はなかった。
数日前に近所の動物病院で点滴をしてもらったけど、全く良くならなかった、ということも聞いた。
「そうなんだ・・・」
そう言いながら状態を確かめるために、クロスの唇をめくった羽尾先生の手が止まった。
白い。
明らかに貧血が起きているか、血圧が下がっていることが見て取れた。
さらに触診をすすめた。
いつも撫でてくれる手が、一体何をしているんだろう?
不思議そうに見上げるそのお腹に手をやった時に、何かに触れた。
「これは?」
思わず声に出た。
お腹の中にソフトボール大のしこりがあるのがわかった。
通常はこんなものはお腹の中には無い。
おそらく癌であろうそれは、柴犬の体にとってはあまりにも大きかった。
「クロス、お腹の中に癌があるよ」
羽尾先生は、静かに、それでもはっきりと言った。

真っ先に疑うべきなのは、血管肉腫という、超悪性のガンである。
かなり進行が早く、数日から数週間のうちに亡くなる。
手術をすれば半年程度ではあるが、それを免れることが出来る。
転移しやすい心臓にガン細胞が飛んでいれば、手術しても意味がない。手術をしてもすぐに亡くなってしまうためだ。
クロスの具合が悪くなってからの期間を考えると、ほとんど時間は残されていないのかも知れない。

帰省してきたその足で、羽尾先生はクロスを連れて自身が務める動物病院へ行った。
院長に事情を説明し、全ての検査を自ら担当した。
血液検査、レントゲン検査、超音波検査、心電図検査、病理検査。
粛々と検査を進めて分かったのは、やはり血管肉腫の疑いが強いことだった。
そして、心臓への転移は無いため、手術をすれば数ヶ月かも知れないが、延命出来る可能性が高いことも分った。
血管肉腫は不整脈が出やすいが、心電図で異常は無かった。
また、赤血球が破壊されることによる貧血も、そこまで重度では無かった。
まだ間に合う、と羽尾先生は半ばホッとしつつ、半ば緊張した。
「血管肉腫治療のための脾臓全摘出術」
まだ若い羽尾先生には、経験したことのない手術だった。

手術は翌日に計画された。
クロスは点滴などの状態を出来る限り整える治療をして、万全の状態で手術に臨む構えだ。
入院して治療を受けているクロスは、分かっているのかいないのか、白衣姿の羽尾先生を不思議そうに見ていた。

当日。
手術は行われなかった。
剃毛して、術前の投薬を済ませて、酸素室に入ったクロスが妙に脱力した。
異変を感じて急いで手術室に搬送して、心電図や血圧をモニターし始めたら、危険度が高い不整脈が頻発していた。
抗不整脈薬を投与するが正常な心電図にはならず逆に心拍数が下がって行った。心拍数や血圧を上げる薬を使いつつ心マッサージを開始した。最早緊急の蘇生処置になっている。出来る限りの治療をするが反応せず、ついには心臓が止まった。まだここから回復するケースが全くない分けでは無い。心マッサージを続ける。5分・・・、10分・・・、15分・・・。
クロスは、亡くなった。

遺体を清拭して棺に納めるまで、全ての処置が終わってから、羽尾先生は実家に報告の電話をした。
両親は口々にいたわる言葉をかけてくれた。
ありがとう、お疲れ様、という言葉を聞きながら、自分の不甲斐なさを呪いながら、涙が溢れるのを止められなかった。
それでも泣いているのを悟られないようにしたのが、良いことだったのか悪いことだったのか。

棺に納まったクロスを実家に届けた羽尾先生に、母親がポツリと呟いた。
「手術の練習とか解剖とかすれば良かったのに」
全く予期していなかった言葉だった。
「そうした方が、高志にとっても、クロスにとっても、良かったかも知れないね」
父親も言葉を選ぶように、ゆっくりと、続けた。
「そう・・・、だね」

自分は、全く足りていないと、思い知った。
知識も技術も経験も。
やる気も、真剣さも。
敬虔さも、謙虚さも、何もかも。
何もかも、全く、足りていない!

一時期、動物病院のスタッフの間で「退職するのでは?」とウワサされるほど、羽尾先生は元気が無かった。
「大丈夫ですか?」
積極的な看護師さんが、羽尾先生に聞いてみたことがある。
「大丈夫ですよ」
おそらく笑おうとしたのであろう。しかし看護師さんには、泣いている様にしか見えなかったとか。

結局、羽尾先生は退職しなかった。
一ヶ月もすると、いつもの日常と変わらないように、元気に冗談を言いながら働く姿があった。
それでもたまに、悲しい様な怒っている様な真剣な様な、そんな複雑な表情を、看護師さんは見かけるようになった。
何が、とは言えないけれど、そんな羽尾先生は前よりも頼りになるような気がした。





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