悲劇の繰り返し

最近虐待や育児放棄の果ての子供の犠牲者に関する報道を耳にすることが増えている。

まだ物心つくかつかないかといった年齢の子供が親の虐待によって命を落としたり、育児放棄の末非行に走る子供の事件など痛々しい話が報じられるたびに、メディアはそのような親をはじめとする加害者を叩くことばで一色となる。

虐待や育児放棄は正当化されるものでは決してない。そのような行為に及んだ親やその他の人間は相応の審理をへて必要な対処を受けるべきであろう。

少し話がずれるが、先日有望な運動選手だった若い女性が”万引き中毒”という状態で逮捕されるという事件が報道されていた。あまり聞きなれない中毒であることとネームバリューのある人間であったためメディアに上ったが、薬物中毒、アルコール中毒、ギャンブル中毒などなんらかの中毒を患う人間はかなりの数に上る。

このような場合でも、”中毒は意思の弱さからくる”という多くの人の考えの元、なんらかの事件に絡んだりしようものなら”世間”から総攻撃を受けることとなる。

このような事件や問題を考えるときに、多くの人はこれらのものは”ある異常な人間の異常な行為”であり、自分はそこから離れたところにおり、絶対的な悪に対して非難を繰り返す、という形になりやすいように思う。このエッセーでも扱うことが多い、”抑うつ”に関しても多くの”まだ抑うつになっていない人たち”が”抑うつに陥った人たち”に抱く考えとよく似ているように思う。

実際、自分のことを考えても例えば子供を虐待死にいたらせたり、薬物中毒や強姦など犯罪の常習犯のようなことは想像がつかない人がほとんどであろう。そのような意味では自分には絶対に起こり得ないこととして怒りの矛先をそのような人々に向けることはむしろ自分の潔白さを表現するためにも不可欠なことかもしれない。

しかし、このようなことはないだろうか。

例えば 言うことを聞かない幼い子供を平手打ちにする。あるいはヘビースモーカーや大酒飲みの人間が自分でも”中毒かも”と思うことはないだろうか。

私がかつていたヨーロッパの国々ではそれらは立派な虐待や中毒に入っていた。もちろんそれらが司法や治療の対象になることもあった。

国が違うのに価値観を同一視するな、と言われそうだがそもそも国が違う程度で虐待でなかったものが虐待となり、中毒までは行かないと思われているものが中毒となる。このように基準自体が曖昧ではっきりした線を引くことが難しい中、果たして自分は異常者とは違う潔白な人間で、極端な言葉を吐く権利があると安心して言えるのだろうか。

そのような背景からこのような人々の報道を見るとき、どんな精神構造からそういう行為に至ることになるのだろうかと考えるようになった。

ここから先は

1,509字
この記事のみ ¥ 200