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「文化」という魔物について

……というのを漠然と考えた。

私個人は、自身を一応、サッカー界隈の人間と思っているが、一方で単純にそう見られるのもなあ……とも思っていたりする少々ややこしい人間だ。

しばし、そんなおっさんの妄想めいたポエムにお付き合い願おう。

最初にお断りしておくが、これからつらつらと書いていくものは、何らかの結論を出すための文章ではない。

繰り返すが、あくまでも「おっさんの妄想めいたポエム」に過ぎない。

それを念頭に置いた上でお読みいただきたい。

「サッカー文化」とは何ぞや?

恐らく、私を含む大半の人々は「サッカー文化」の定義を確たるものとせずに、かなり曖昧な定義づけでこの語を使っているのではないか。

そして、この定義を具体的に訊いても、人それぞれに異なった内容しか返ってこないのではないか。それほどまでに、漠然としたイメージの語だと私個人は考える。

例えばそれが……

★サッカーの社会的地位が現状以上に向上した状態
★サッカーの認知度知名度が自分(若しくはその仲間内)以上の広い範囲にも見られるような状態
★サッカーがナショナルパスタイム(国民的娯楽)である状態

……だとすると、それらが現状の日本で欠如しているのは仕方がない、としか言えないのではないか。

我が国で最もイメージしやすいスポーツとは何だ、と言われると、概ね「野球」を挙げざるを得ない。

マスメディアによる報道の傾向、それらによって長年培われてきたイメージ形成など、野球がこと日本に於いてナショナルパスタイムと化している現実からは、目を背けられないと考える。

ただ、現代社会に於いて、娯楽は多様化したし、それらを報じるメディアの在り方にも変化が生じた。それを受け入れられない人々は、時代の変容についていけなくなるのではないかとさえ思えるほどに。

そのように考えた場合、単一の競技に於ける一面的な文化を語るのは、魔物を相手にするようなもので、却って難しいのではないかと考える。

テレビはもはや有力メディアではない

例えば、何かの象徴となるべきテレビ番組の視聴率が50%を越えるような時代は終わった。
とりあえず、紅白歌合戦を例に取る。Wikipediaからデータを引いてくるのもアレだが、図表化したものを他に見つけられなかったので……。
いわゆるレコ大こと日本レコード大賞とは異なり、紅白の放送日は最初期三回を除いて毎年大晦日固定である。

二部制になった1989年以降、徐々に低下傾向が顕著になった。ただ、二部は一部と比較して基本的に高めの傾向にある。数字が数%の差まで近接したことはあっても、一部と二部で逆転したことはないようだ。

低下傾向にある理由は何だろうと思ってみる。

★地上波のみがテレビ放送手段でなくなったことにより、同日同時間帯に視聴可能なテレビ番組の選択肢が増加した
★またそれ以前に、ネット等が普及したことで、テレビのみに依存しない同日同時間帯を過ごすための習慣形成がなされ、テレビが娯楽の絶対王者でなくなった
★音楽を楽しむ手段も変化し、多様化したので、テレビ(のみ)で視聴しなければいけないものでは必ずしもなくなった

……パッと思いつくのはこんなところだろうか。

この、紅白歌合戦の視聴率低落傾向を、「音楽文化の衰退」と位置づける論を私は見たことがない。
唱えている人はいるのかもしれないが、少なくとも私は知らない。

単刀直入に言えば、音楽を取り巻く環境が変化した、ということは言えることはあっても、それが文化の衰退には直結しないように思われる。


話が大きく逸れたので、軌道修正しよう。

コマーシャルに見るサッカー「文化」

日本に於ける国民的な娯楽としてのスポーツの代表格は、先にも述べたように「野球」であることは動かし難い。

だが、この四半世紀ぐらい、特に日本プロサッカーリーグ、つまりJリーグが誕生してから、だいぶ風向きは変化してきた。

1994年にかのドーハの悲劇があり、その後、ジョホールバルの歓喜を経て、とうとうFIFAワールドカップへの出場権を手にした。
2002年には(韓国との共同開催というおまけはついたが)日本にもFIFAワールドカップのもたらす熱狂の渦が巻き起こった。
個人的な経験を話すと続く2006年のドイツ大会の最中に、島根県内で実施されたパブリックビューイングを手伝ったこともある。それに関しては、いずれ何処かでご披露する機会もあろう。

とにかく、Jリーグ開幕直後のいわゆる「Jリーグバブル」とは異なる意味に於いて、サッカーを取り巻く環境の充実が為され、情報の総量や日本人選手らがフィーチュアされる機会も増えたように思う。

いわゆる「Jリーグバブル」の時期だと、例えばこの辺がよく知られているだろう。三浦知良選手が出演するこのコマーシャルは有名な方かもしれない。
サントリーは、今で言えば明治安田生命みたいな立場だった。リーグタイトルスポンサーというヤツだ。
ある時期までのJリーグは前後期の二ステージ制で、その前期のスポンサーをサントリーが務めていた。後期のスポンサーは信販大手のニコスだ。
サントリーはコカコーラの後にヴェルディ川崎の胸スポンサーにまでなっているのだが、まあ、それはそれ。

こうした時代に始まり、そのピークになったのが、2002年のワールドカップだったんじゃないだろうか。

例えば、このナイキのコマーシャルに、当時の世界的スーパースター選手連中に交じって中田英寿も出演する。

だがこれまでの場合、その多くでは野球がベースになっているものならともかく、そうでないスポーツではドメスティックな選手は、そこまで多くは登場しなかった。
強いて言えば、ゴルフの岡本綾子とか倉本昌弘、テニスの神和住純、モータースポーツで言えば自動車の星野一義、オートバイの片山敬済とか、パッと思いつくのは、それらの道の第一人者的な存在がほとんどだ。
サッカーだって例外ではない。Jリーグ以前だと、釜本邦茂、奥寺康彦辺りは出ていただろう。
Jリーグ以後は、上記の三浦知良をはじめ、多くの選手が出演するようになった。

個人的にはこれとか名作だと思ってる。当時のヴェルディ川崎があまりにも豪華すぎるメンツだったために鋤柄昌宏の印象は余り濃くないが、彼はこのCMで一躍名を轟かせた。

中田英寿はこのナイキのコマーシャルで演者の一人として、そのプレーを存分に見せている。こういう起用法ができたのはナイキだからというのもあるかもしれないが、一つのピークには違いなかった。


そして、Jリーグそのものも変わりつつあった。

1999年に、J2が誕生、2014年にJ3が誕生し、リーグ規模の拡充が図られ始め、チーム数そのものやチームの所在地が増えていくと、コマーシャル露出の在り方が変わってきた。

地場のチームに、全国的知名度のある選手が所属している、または在籍歴が長くその意味で抜群の知名度を誇る選手が所属しているなどでコマーシャルに起用されるというパターンが増えてきた。

現在でもガイナーレ鳥取のパートナー企業の一つである大山乳業農業協同組合のコマーシャルの場合だと、当時の所属選手である以下の三選手が起用された。

「ガイナーレ鳥取編」
実信憲明(現・松江シティフットボールクラブ監督)
岡野雅行(現・ガイナーレ鳥取取締役GM)
「カウィーのシュート編」
小針清允(現・株式会社JOIN代表)

これは一例で、他にもJFLの頃には、こういうのもある。

ここに登場するのは奥山泰裕(現・コバルトーレ女川)だ。これは奥山の当時の有名なエピソードが関わるコマーシャルだが、これには笑わせてもらった。

こういう感じで、チームの規模的な成長やカテゴリの上昇による成熟過程にある中で、コマーシャルタレントとしての存在感を認知されて言ったように思われる。
その結果、ガイナーレ鳥取のケースでは上述のような地場企業のコマーシャルに起用される、というパターンが、出てきたのではなかろうか。

これもある面では文化的な成熟、と言える。

一方で、「文化」という単純且つ安易な言葉の意味するところは、実に幅広く、それ故に少々厄介でもある。

結局、どういう意味合いで「文化」という表現が使われているのか、文脈などから推察するしかない。

異論も多々あるのは承知で、ここではド単純に「サッカーという競技及びそれを取り巻く境遇に、一定以上の理解を示した状態が存在すること」を「文化」と定義したい。


多様性と掛け持ち応援、そして「応援文化」なるもの

とはいえ、サッカーのために無理を道理にすることはできない場合が存在するのも事実。
これは「サッカー」の部分が「野球」「ラグビー」「陸上競技」などの他の競技に変わっても同じことが言える。あるいは、「囲碁将棋などのボードゲーム」や「eスポーツ」などにも同様のことが言える。

そうした「文化」の存在が「無理筋を強引に通すためのエクスキューズ」になってしまうのは良くない。
そうしたものがなくても、サッカーの側に何らかの必要があれば融通を利かせてもらえて、代わりに他方で別の必要が生じたらサッカー側が抑制を効かせることができる、そういう関係性が望ましい。
お互いにギブアンドテイクが成立する関係が成り立つ、それが理想的と言えるだろう。そこに成立するものをたぶん「文化」と呼ぶべきなのかもしれない。

どんなスポーツにしろ、芸術にしろ、趣味の範疇にあるものは、それぞれがそれぞれの特徴や特性を活かしつつ、お互いに譲歩し合い、協力し合うことで共存共栄を図るのが望ましい、と私などは考える。

もちろん、「いや、俺(私)の好きな○○がどんどん栄えるべき」とする意見も尊重されるべきだろう。
だが、現実問題として、趣味の多様化が進行した現代に於いて、それは非常に難しい。
「俺(私)の好きなサッカーだけが」「野球だけが」「ラグビーだけが」という価値観は、それ単独で存在することを否定はしないし、そういう愛し方がむしろこれまでは幅広く流布していた。

しかし、時代が移り変わると共に複数のスポーツを推す(若しくはそのことを公言する)人が増えてきた。サッカーなら○○、野球なら××、というようにスポーツごとに推しチームや推し選手を持っている人がいる。
これはスポーツだけの話ではない。芸能の世界でもそうだろう。例えば「どこそこのアイドルグループの○○が好き」や「俳優の××が好き」などが共存する人も多い。

音楽だったら、昔は「ビートルズファン」の対立概念として「ローリング・ストーンズファン」がいたのが、「ビートルズも好きだし、ローリング・ストーンズも好き」という人も出てきた。
あるいは最近の例で言えば、例えば「Perfumeの○○が好き」と「AKB48の××が好き」が同時進行的に成立する人もいる。
もっと極端な例だと、例えば「銀杏BOYZが好き」と「島津亜矢が好き」が同時進行形で成立するような人もいるはずだし、「J.S.バッハが好き」と「氷川きよしが好き」が同時進行する人だっているかもしれない。
これと同じことがスポーツでも起こり得て、例えば「横浜F・マリノスの○○が好き」と「横浜DeNAベイスターズの××が好き」や「横浜ビー・コルセアーズの▲▲が好き」が同時進行的に成り立つ人がいる。

私が以下の駄文でちょっとだけ触れたような感じだ。

競技への関わり方が、時代やそれを取り巻く人々の意識と共に少しずつ変容していって、応援対象が多様化した状態が現出し始めた。
かつて主流だった「応援対象に殉じ、絶対的な忠誠を誓う」というような観念から「応援対象がカジュアルに変容し、多様化していく」ことを認める社会情勢になっていった。
これらのバックボーンにあるのが「多様性」とみて良いと思う。


多様性


最近よく使われるし、目にする機会も多い言葉だが、私も含めて、たぶん本当のところはわかっていないのかもしれない。

仮に、個人的な主義主張から「A」という政党を、積極性の度合いは別としても支持するとして、対立する「B」や「C]への個人的な評価や好悪の感情は別にして、存在は認める、となるべきだろう。
それが「多様性」を認める社会のはずだ。「Aを支持するのでBやCは滅亡してもいい」というのは、本来的には良くない。それが蔓延ると多様性を認めない社会になってしまう。

今、ファッション的に流行っているポリティカルコレクトネスの対極にあるのが多様性なのだろうと思うのだ。

こういう社会背景がある中、「文化」の現実も変容していっているのではないだろうか。

そして、「応援はかくあるべし」とする定形を求めようとすること、つまりはそれを以て「応援文化」とするものは、その世界観を理解している人にしかわからない世界である。
そして、その辺りの機微を介さない人たちからしたら「何のこっちゃ?」となること請け合いだと思う。

サッカー応援は「プロレス」に喩えられる。確かにプロレスの、特にマイクアピールなどに世界観は近いかもしれない。だが、プロレス的な世界観を理解している人でないと、わかりにくいだろう。

また、ストーリーが肥大化・複雑化してしまうと、却ってわけがわからなくなる。じゃあ、プロレス団体でしばしばやるように、ユニットを変えてみようか、などということはできない。

サッカーのチームはいくつかのユニットで小分けできる類のものではないのだから。
故にあまり「応援文化」の語に拘るのは得策ではないと思ってしまう。

応援、いや、サポートにはこれという定形はないと私は思っている。法律や条例、あるいは場の規則などから外れてさえいなければ、いろいろな応援があるべきだと思う。

もちろん、収拾がつかないのはあまり好ましくないので、ある程度の統制は必要かもしれないが。

「文化」の意味は誰にもわかり得ない

ここまでグダグダ書いてきたが、結局何を以て「文化」なのかを断じることなど、誰にもできないのではないか、と思い始めている。

私は、そもそも浅学非才で、思考も浅く、故に短慮で早計も大変多い。

そんな私が精一杯考えても、結局何が何だかわからないまとめにしかならないのが現実だ。

正直言う。

「文化」の意味など、結局誰にもわかり得るものではない
差し当たって言えば「魔物」みたいなものだ

ここまであんなに偉そうに書いてきて、結局その結論かよ、と言いたい人も多かろうけれど、それでクソミソに言われるのは仕方がない。それは私の思考が浅いからに他ならない。

ただ、私も含めて「文化」という言葉を、半ば御都合主義的に使っている人が多いかも、と漠然とは思っている。

文化というのは、実際のところ日常生活にも密接にリンクするもので、例えば朝起きて顔を洗ったり、歯を磨いたり、食事を摂ったりするのと同じレベルで、生活に密着しているものだ。

例えば、スコットランドプレミアリーグの強豪としてよく知られるセルティック、かつては中村俊輔が在籍して大きく活躍し、今ならば古橋享吾が移籍したチームとして知られる。
そして、何より世界的なロックスターであるロッド・スチュワートが贔屓にしていることでも大変に有名なチーム。このスコットランド的なアレンジの曲に乗せたこういうビデオまである。

このビデオに登場するような地場の(特に成人の)セルティックサポーターはそうだと思うが、あのチームと共に生活があるものと容易に想像できる。日々の生活にセルティックが密接に関わる。
無論、仕事ではどの程度関わるかは知らない。たぶんセルティックと無縁な仕事をしている人もいるかもしれない。
だが、余暇には大きく関わるのではないか。特にチームの試合がある日はそうだろう。パブでセルティックの試合をつまみに一杯引っかけつつ、選手の活躍に目を細めたり、勝敗に一喜一憂したり。
その結果として、敗戦の屈辱に嘆いたり怒ったり、勝利には大喜びする。そうして酒のピッチが上がったり下がったりする。
そうしてセルティックと共に一日が済むと、また別の新たな一日が始まる、といった具合に。

こういうのが、たぶん「サッカー文化」という語を唱える人が目指す最終的な目標とするべき形態なのではなかろうか。

人々の暮らしに、ここで言えばセルティックが密接に関わり、生活の潤いや家族的または地域的な結びつきに寄与する、そんなものにサッカーのチームが最終的にはなれば良い、と。

ただ、以下の点にも注意したい。

以前なら、例えばプロ野球の読売ジャイアンツなり、西武ライオンズなりがその役割を担っていたものが、Jリーグの誕生から発展・拡大によって、構造的な変化が生じた。
そして、地域や人とスポーツとの関わり方に変化が生じ、推す対象にも変化が生じ始めた。

その中で、「野球のAとサッカーのB、ラグビーのC、バスケのD」が応援対象として併存することがあり得る。そのような多様性が認められる社会であれば良いと思う。

恐らくはそういう状態が完成し、成熟化したのが「文化」なのだろうな、と思ってみたりする。

結局、何やねん?

少々込み入ったことを言えば「競技単体の縄張り意識に基づいた文化」というより、「スポーツ全体が個々の競技について認め合い、必要があるならば譲り合う文化」が幅広く世の中に浸透してほしい。

なるほど、それは簡単にはいかない面も多分にあるだろう。しかし、根気強く折衝すれば妥協点は見出せる。

日本という国の中で成熟していく「文化」は、諸外国の模倣から出発しても構わないのだが、最終的には我が国に適応した形に成形さて行くべきだろうと思う。

そして、それは1年や2年やそこらでは成立しないし、10年とか四半世紀、つまり25年程度のスパンでも作られないだろう。
最低でも半世紀(50年)以上の歴史がないと、形成されないものかもしれない。

野球という単体の競技だって、日本のスポーツでは歴史がある方だが、あくまでも日本流にリプロダクトされている最中であり、それは例えばサッカーなどにも言えるのではないか。

それよりも、スポーツ全体が社会と如何に関わっていくのか、というフェーズにいるのかもしれないと認識した方が良いと思う。
これは何もスポーツだけの問題ではない。芸能や芸術などにも同じことが言えるし、学問などにも同じようなことは言える。

「文化」とは、そのように考えると、実は非常に奥の深い、容易ならざるものなのかもしれない。

イカン、浅薄で軽薄な私ではどんどん手に負えない問題になってきてしまったので、ここらで締めないと、現時点でもメチャクチャなのに、この先どんどんわけのわからない文章になってしまう。

ただでさえ思考が浅いのに、「文化」などという、容易でない話に首を突っ込もうとした私が馬鹿だったのだ。

結局、さんざんもっともらしいことを並べておいてあれだが。この文章には「文化は容易ならざるものであり、魔物のようなもの」以外に確たる結論はない。
私では手に負えなかった巨大な存在。それが「文化」の正体なのかもしれないなあ。

7700文字近く費やして、何をバカみたいな戯れ言書いてるんだか。いい歳をして全く情けない。
これではまるで、私の頭の中が如何に整理されてないかを示しただけの文章になってしまったではないか。

もう恥ずかしいので、この辺でお開きにするとしようか。

基本的に他人様にどうこう、と偉そうに提示するような文章ではなく、「こいつ、馬鹿でぇ」と軽くお読みいただけるような文章を書き発表することを目指しております。それでもよろしければお願い致します。