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オフコースのオリジナルアルバムを勝手にレビューするシリーズVolume16:「Back Streets of Tokyo」

四人時代二作目。今回は全曲英語詞。

序説

実を言えば、オフコースは予てから(鈴木康博在籍時から)、英語によるレコーディングを試みていた。
実際に英語版「こころは気紛れ」である「Susan」なる作品も聴いたことがある(バッキングトラックはシングルのテイクを流用したもの)。
また、「ワインの匂い」に収録された「愛の唄」を、カーペンターズに歌ってもらいたいと、デモテープを制作して、カーペンターズサイドに贈ったことがあるらしい。
残念ながらカーペンターズがその曲を取り上げることはなかったが、リチャード・カーペンターによると「確かにデモテープは我々のところに届いていた」という。
プロデビュー前の音源らしい「Leaving on a Jet Plane」を聴いたこともある上に、プロになってからでも、ライヴ盤の「秋ゆく街で」に「What's Goin' On」や洋楽メドレーを収録している。
このように、オフコースと英語詞、というのはわりと親和性がある。

五人時代はやらなくなったが、四人になってから、英語による録音に目が向き始め、とりあえずの一歩としてシングル「緑の日々」のカップリング曲にもなった「哀しいくらい」の英語版でもある「CITY NIGHTS」が作られた。

シングルのカップリング曲というポジションだったので、さして目立つようなことはなかったが、これはこれで悪くはない。
バッキングトラックは「Over」に収録されたものをほぼ流用しているようだが、サキソフォンのソロが新たにオーヴァーダビングされている模様。

こういった前段があった上で、本作が制作された。リリースは1985年8月1日だった。

体裁としては、既発の作品に英語で歌詞をつけただけだ。「The Best Year of My Life」収録曲が4曲、「Over」収録曲が1曲、シングルカット曲が3曲。
作曲者は小田和正が6曲(1・2・4・5・6・8)、松尾一彦が2曲
(3・7)という配分。作詞者はRandy GOODRUM。ビル・シュネーとも親交があり、TOTOやデイヴ・グルーシンらと仕事をしている。
アレンジにはPeter WOLFが加わっている。J・ガイルズバンドのリードヴォーカリストだった人物ではなく、オーストリア人プロデューサーである。WANG CHUNGの「Mosaic」などが知られる。


1:FOOL(What does a fool do now?)

原曲は「恋びとたちのように」である。変更点がいくつかあり、ドラムスが跳ねるようなリズムでオーヴァーダブされている他、リズムギターにもオーヴァーダブがある。
少しだけパーカッシヴな仕掛けも存在し、原曲と比べてそこそこの規模で改変されているようだ。
(作詞:Randy GOODRUM・作曲:Kazumasa ODA)

2:SECOND CHANCE

原曲はこの年の2月に発表されたシングル「Call」である。これも若干改変が行われており、イントロや間奏にシンセによる装飾音がついている。
このアルバム全体に言えることだが、英語ネイティヴでない人間が英語で喋ったり歌ったりしても、伝わりかねるのではないか。
特に小田の作品にはそれが顕著に表れているように思える。日本語で作られたものは、日本語のリズムで歌われるべきだと思う。
(作詞:Randy GOODRUM・作曲:Kazumasa ODA)

3:LOVE'S DETERMINATION

原曲はシングル「たそがれ」のカップリング曲だった松尾の「LAST NIGHT」で、元々の日本語の歌詞は秋元康が書いている。
松尾のこの曲も日本語オリジンのため、リズム的には日本語の方が嵌まりが良い感じはするが、これはこれで悪くないだろう。
中間部でヴォコーダーと思われるボイスが出てくるが、オリジナルのものをそのまま流用している。
後半に出てくる小田のコーラスはオリジナルの「LAST NIGHT」には存在しない。
(作詞:Randy GOODRUM・作曲:Kasuhiko MATSUO)

4:HER PRETENDER

原曲は「気をつけて」である。少しシンセのメロディが付け加えられている他に、ドラムスにも少し改変があるように思う。
これを聴いても思うのだが、日本語で完結している作品を、わざわざ英語にしてしまう理由が正直なところわからない。
海外のマーケットに挑戦してみたい、という意気込みがあるものだとしても、既発の曲でなく、新曲を作ってほしかった。
また、Peter WOLFのアレンジもやや過剰な部分があるように思えてしまう。
(作詞:Randy GOODRUM・作曲:Kazumasa ODA)

5:EYES IN THE BACK OF MY HEART

原曲はご存知「君が、嘘を、ついた」である。これにもパーカッシヴな加工がなされたサウンドが付加されている。
間奏入りの前の「君が嘘をついた」を連呼する部分の処理が今一つ釈然としないし、フェイドアウト部分の前の処理もちょっと違う気がする。そう言ったことなどを含め、若干だが、原曲より長いように思われる。
後にフジテレビ系のドラマの主題歌として採用され、シングルカットもされている。
(作詞:Randy GOODRUM・作曲:Kazumasa ODA)

6:MELODY

原曲は「Over」収録の「哀しいくらい」である。決して「CITY NIGHTS」ではない
諸事情あってオリジナルのバッキングトラックを再利用するわけにも行かないので、バッキングトラックを録音し直している。
いきなりJerry PETERSONのフリーキーなサックスのメロディが聞こえるのはそのためで、これが楽曲の興趣をかなり削いでしまっている。あんな余計な楽器は要らなかった。
間奏のサックスのソロも、ソプラノサックスに変更しているせいか、軽く聞こえてしまう。アレンジ一つで良い曲も……という典型例になったしまった感がある。
(作詞:Randy GOODRUM・作曲:Kazumasa ODA)

7:LOVE'S ON FIRE

原曲は松尾の「愛を切り裂いて」である。これはむしろ英語の方がハマる曲だろう。松尾の英語の巧拙は知らないが、これを誰か別のシンガーが歌ったら、それなりにヒットしたのではないか。
原曲で恐らく清水がやっているはずの低音のコーラスがなく、高めのコーラスに置き換わっている。
洋楽的なアプローチで作られた作品が、こういうところで生きた、という言い方はできるかもしれない。
このアルバムで最も安心して聴ける作品と言える。
(作詞:Randy GOODRUM・作曲:Kazuhiko MATSUO)

8:ENDLESS NIGHTS

原曲はこの年の5月にリリースされたシングル「たそがれ」である。歌詞にアルバムのタイトルフレーズが時折登場する。
そのまま「たそがれ」のバッキングトラックを流用しても良さそうなものだが、何故かここでは再録音している。冒頭部分が若干異なる。
原曲にもRandy GOODRUMが作詞している部分がある曲だが、その部分も流用されている。
(作詞:Randy GOODRUM・作曲:Kazumasa ODA)

アルバム全体の短評

正直言うが、英語がネイティヴでな人間が英語圏で「英語か否かにかかわらず」歌を歌って成功する、という事例はかなりレアだ。
坂本九が「上を向いて歩こう」を「Sukiyaki」としてヒットさせたことはつとに有名ではあるが、あれはたまたまだ。

その後、日本でも著名となったコンビアイドルのピンク・レディーが、アメリカに進出してアメリカで「Kiss in the Dark」という曲をスマッシュヒットさせたが、彼女らは英語詞のオリジナル曲を歌った。

翻って、いくらオフコースが、昔、カーペンターズに曲を提供しかけたことがあるとは言っても、そんな事実だけでは洟にも引っかけてくれない。
ビル・シュネーやピーター・ウルフ、ランディ・グッドラムなどという知己を得ても、それらだけで契約が取れるほど甘くはなかった。
確かに全米進出を狙い、いくつかの曲を録音し、こうしてアルバムをリリースするに至った。

しかし、結論から言うと、本作からあとも、オフコースが解散するまで、彼らがアメリカに於いて契約を勝ち取ることは出来なかった。
ただ、「FOOL」や「ENDLESS NIGHTS」など、いくつかの曲はアメリカのラジオ局にてオンエアされたことがあり、小田自身も「ENDLESS NIGHTS」のフェイドアウト部分をアメリカのラジオ番組で耳にしたことがあるという。

このように契約こそ取れなかったが、アメリカの音楽業界と関わりを持ち続けることは推奨されたため、それは翌1986年に小田のソロ活動で当地のミュージシャンたちを録音に起用することから成り立った。
また、オフコースとしても、次作「as close as possoble」に収録されている「Love everlasting」で、小田のソロ活動に関与したミュージシャンが参加するまでになった。

そういう広がりはあったものの、良くも悪くも作品集としては、既発の作品を英語化しただけ、のものにしかならなかった。
小田が、これをリリースした頃のライヴのMCで「折角作ったのだから聴いてほしい」と言ったのは、かつての「Susan」などのようにアウトテイクにするのは忍びなかったからだろう。
小田は同じ頃「このチャレンジを継続する」旨の発言をしているが、それは戦術のように小田のソロ活動の中や、その後に部分的に形になった。

ただ、本作の頃から徐々に顕著になっていった面があるが、「別にオフコースというバンドがやらなくても良い」曲が増えていったように思えてならない。
LOVE'S ON FIREの項にも書いたが、あの曲などは別のシンガーがそれらしく歌った方が、より良く仕上がりそうに思う。
松尾がダメ、なのではなく、オフコースというブランドに拘らなければ、あの曲には別の可能性があっただろう、という話をしたいのだ。

1973年のファーストアルバムリリースから、メンバーの若干の変遷こそ経験したが、大切に作ってきた「オフコースというブランド」で作るべき必然性が果たしてあったのか?という気がしてしまう。
まだ、「The Best Year of My Life」までは、そういう必然性を感じることが出来たが、本作からその必然性は薄れてきたように思え、次作でそれは決定的になったと感じる。

オフコースというグループが、単純に自我のあるバンドでなくなり、意欲的な音楽作家集団となっていった、と言えるのかもしれない。
それは成長だと思うのだが、オフコースがオフコースである必然性も、次第に薄れていった、と感じられるように思う。
その成長を喜ぶ一方、その変化のスピードや変化の方向性に戸惑いを感じるリスナーも出始めた、というような時期が、本作リリースの時期ではないだろうか。

その変化が形となって表れたものの一つが、本作であると同時に、本作の直後にリリースされたシングル「夏から夏まで/ぜんまいじかけの嘘」なのだろう。
オフコースはあの頃から、恐らくだんだん別の方向を見据えるようになっていったと思うのだが、その方向性に聴く側が納得できていたのかまでは、実際のところわからない。

自分自身も、あの「夏から夏まで」を最後に、彼らのシングル盤を買わなくなった。洋楽にどっぷり浸かり始めていた時期であっても、彼らのことは気にかけていたというのに。
たぶん、感覚として「オフコースは自分が思っていたのとは違う方向に行き始めている」と感じたせいなのかもしれない。

だから告白しておくが、次作「as close as possible」や最終作「STILL…a long way to go」はリアルタイムで聴いていない。その気にならなかったのだ。
確かに良い曲は多いのだが、繰り返し書くけれど「それ、オフコースである必然性ってあるのかな?」という曲が増えていった。

例えば「さよなら」はオフコースでなければいけなかったし、「愛を止めないで」や「眠れぬ夜」もオフコースでなければいけなかったと思う。
「YES-YES-YES」なども、オフコースというブランドがなければ成立しなかった曲だと言える。

四人時代のオフコースは確かに成長した。したが、彼らが作り上げてきたはずの「オフコースというブランド」を手放す時期でもあったように思う。
近い将来やって来るであろうグループの終焉に向けて、それは仕方のない、しかしきわめて重要な作業だったんじゃないか。

今は何となくだが、そう思えてしまう。

基本的に他人様にどうこう、と偉そうに提示するような文章ではなく、「こいつ、馬鹿でぇ」と軽くお読みいただけるような文章を書き発表することを目指しております。それでもよろしければお願い致します。