ロストフの14秒という事象に関するきわめていい加減な考察

話題になっている(と言っても放映そのものはもうだいぶ前に済んでいますが)ので、例のワールドカップロシア大会準々決勝での日本vsベルギー戦終盤のクルトワ起点でカウンター喰らった一連の事象(その一連の流れを「ロストフの14秒」と称するそうですが)について、俺らしく、きわめていい加減に考察してみました。
但し、書いている俺はというと、戦術論にも明るくなく、知識も語彙も極めて乏しく、意識も浅薄で低い方なので、サッカーに少しでも長じている方々ならば「こいつ、何言ってんの?」となるかもしれません。「素人が勝手なことを言いふらしている」という類の文章で良ければ、このまま読み進んでください。「俺はもっと専門的で高度な分析を読みたいんだ!」と仰る方は、今すぐ同じことに触れた別の方のnoteを検索の上、そちらをお読みください。

俺はそもそもあのカウンターアタックに関する事象に名前をつけて象徴化することの意義について、きわめて懐疑的な立場です。
そんなことで矮小化したところで、あの場面でカウンターを喰らってシュートを決められて得点を許して敗れた事実は一切揺るぎませんし、それは映像を作った側の自己満足に過ぎないだろう、と。ぶっちゃけて言えば、それって単なるイベント化でしょ?という話にしかならないのでは。
その意味で、どうにも引っかかるのです。

そこで、俺なりにグダグダと脱線しまくりながらあれこれ考察してみよう、となったわけでして。
わけのわからない長文駄文の羅列ですが、お目汚しだと思ってお許しください。ここで止めるとお代も払わなくて済みます。

正直、お代を頂戴してまで読んでいただくテキストでもないと思うのですが、せっかくある機能なので試しに使ってみよう、という程度のノリです。従って100円で設定しています。チラシの裏に書くようなことにおカネを惜しまない、という方向けです。

先ずは、せっかくなので、いわゆる「ドーハの悲劇」の頃からの25年近くの代表の歴史を振り返ってみましょうかね。


1993年に、すっかりお馴染みの「ドーハの悲劇」ってのがあったじゃないですか。ほら、ワールドカップアメリカ大会予選のイラク戦で、2-1の終盤戦でイラクにCKを合わせられてドローに終わったせいで、初の本大会出場が寸前で雲散霧消した、というあれですね。
あれ自体はとても悲劇的だったけれども、しかし、あのあとも代表は苦しみました。「ドーハの悲劇」の時の代表監督は、マリウス・ヨハン・オフトさん。俗にハンス・オフトと呼ばれる人です。
そのオフトさんの後にパウロ・ロベルト・ファルカンさんを呼んだわけですが、そこに戦略的な継続性などというものはほぼ皆無だったと思われます。ヴィジョンも何もなく、とりあえず目先が変われば何とかなるだろう、ぐらいのことではなかったかと思います。
結局、ファルカンさんは1年程度でお役御免になり、加茂周さんが次に据わりました。その加茂さんの頃に、主に加茂さんの采配に対する不信感からだろうと思いますが、ネルシーニョ(今度柏レイソルの監督になるそうですが、この頃はヴェルディ川崎の監督だった)を呼ぼうとしたらゴタゴタが起きてしまい、例の「腐ったミカン」騒動が起きてしまいました。
あの時は、当時の長沼健JFA会長にも大きな非難がわき起こったような記憶があり、長沼さんは当時、威勢の良い啖呵を切ったような気がします。
ともあれ、そのまま加茂さん・長沼さんは留任しましたが、加茂さんの方はと言うと、結果で不信感を覆すまでには至らず、予選中に結局お役御免になり、跡を継いだのが岡田武史さんでした。
岡田さんでめでたくワールドカップに出場はできたものの、1次リーグで1勝も挙げられず、最後に中山が得点を決めるという意地を見せて大会を終えただけでした。

このあと、また監督は外国人路線に戻り、次に呼んだのがフィリップ・トルシエさんです。あの変わり者のフランス人はしかし、日本代表の潮目を確実に変えたと思います。
無論、トルシエさんだけの功績ではありません。人気の拡充には少なからず苦戦しながらも、少しずつ競技レベルの向上に寄与してきたJリーグというプロリーグと、そこで育った多くの選手たちとの融合が、これらの成果をもたらしたと思います。
トルシエさんも偏屈な変わり者でしたが、その指導は妥協を許すものではなかったようで、それが当時の選手たちに様々な影響を与えているようです。
今、サッカー解説の世界に於いてニュージェネレーションに位置づけられる戸田和幸氏などはその筆頭かもしれません。あるいは今年6月頭までガイナーレ鳥取の監督を務めていた森岡隆三氏もその1人に数えて良いかもしれませんね。
トルシエさんの代表チームはいろいろ言われたと思うんですが、でも、それなりに面白い代表でした。

このトルシエさんの次に誰を呼ぶかと思えば、ジーコさんでした。俺、この人選は今でも失敗だったんじゃないかと思ってましてね。だって、肝心のドイツ大会でフランス大会の時同様に1勝もできなかったんですよ。
指導実績という面で言えば、鹿島アントラーズで(明確な立場での監督ではなく、GMに類する立場で)実績がある程度の人ですよ。あと、せいぜいブラジル代表のテクニカルディレクター職に就いていた。そういう人に過大な評価を与えたことはよろしくないと思うのです。今の森保さんに対する評価みたいなものでしょう。

ジーコさんが辞めた後、イビチャ・オシムさんがその任に就きました。例の「あっ、オシムって言ったよね?」のあれですね。ただ、彼の場合、任期途中で脳梗塞を発病してしまいました。幸いに一命は取り留め、予後もそれ相応に良かったようですが、その時点での監督業継続は困難になったので、ここで岡田武史さんに再登板願うことになりました。
第2期岡田政権時も当初は(特に風評が)芳しくなかったのですが、ワールドカップ南アフリカ大会本大会で躍進して、その評価を覆しました。

ただ、岡田さんは加茂さんの時もオシムさんの時もそうですが、あくまでも代理の立場。
次の監督はまた異なりました。親日家でもあるアルベルト・ザッケローニさんが就きまして。ザッケローニさんは物腰の柔らかい好人物だったと思うのですが、その人の好さが、却って災いしたのではないでしょうか。
ザッケローニさんで臨んだブラジル大会は結局1勝もできませんでした。ただ、彼だけの責に帰するにはあまりにも酷だという気もします。彼が思い描いたようなサッカーにならなかったのではないか、とも思うのです。

ザッケローニさんは、人物的には模範的とも言える方だったのでしょうが、勝負師としては大人しすぎたのかもしれません。彼が、例えばファビオ・カペッロみたいな面の皮が厚そうな(あくまでもイメージですよ)人だったならば、もう少し違った道があったのかもしれません。
隣国の韓国がフース・ヒディンクを引き入れてそれなりの成果を残したように、マイルドとも言えるザッケローニさんよりは、かつてのトルシエさんのように劇薬的な監督も必要だったのかもしれません。

そうした傾向を欲したのかどうかは知りませんが、次にJFAが人選したのはハビエル・アギーレさんでした。
実を言えば、アギーレさん自体は初めてJFAからオファーを受けたわけでもないそうで、2010年にもオファーされたらしいですね。しかし、この時には家庭事情で固辞されたとか。そういう経緯があったので、いわゆる満を持しての登板・・・となったはずだったのですが、成績とは無関係の事情で無念の降板となりました。

このアギーレさんの後釜として据えられたのがヴァヒド・ハリルホジッチさんでした。ハリルホジッチさんはタイプとしてはトルシエさんに近いのかもしれません。日本的な「なあなあ」ではなく、よりシステマティックな統治を臨んでいたのかもしれませんね。
ですが、彼の思い描いた代表は、その形がある程度結実しかけた頃に急転直下、破綻してしまいました。なぜなら、ハリルホジッチさんが任を解かれたためです。
「選手たちとのコミュニケーションや信頼関係が薄れていた」というのがJFAの用意した解任理由なのですが、数字などのエビデンスに拠らない「印象論」を理由にした解任を、そうした「和」で何でも解決を図ろうとする日本の国民性を深く理解していない(と思われる)ハリルホジッチさんに納得しなさい、というのは、あまりにも無謀な話だと思います。
もしハリルホジッチさんの代表監督としての成果に納得がいかないのなら、そんな曖昧模糊とした理由ではなく、「あなたが就任なさってから、これこれこういうデータがあってそこが不足だから別の監督さんに強化していただくので、ハリルホジッチさん、申し訳ありませんがお辞めください」とでもハッキリ言えば良かったのですよ。
そうしたら、事後にあんな馬鹿馬鹿しい裁判など恐らく起こされることもありませんでした(ハリルホジッチさんだって本来はあんな裁判したくなどなかったのではないか、という気がします)。

とまれ、ロシア大会の前にハリルホジッチさんが急転直下の事態になったので、代役を立てなければならなくなりましたが、今更代わりを探す時間的な余裕などないので、内部昇格で補おうということから、かつて五輪代表の監督も経験があり、その後、日本の多くのクラブチームで指揮経験のある当時の技術委員長だった西野朗さんに白羽の矢を立てました。


この西野さんの代表がロシアでどうなったか、というのは、もう大抵の方はご存知ですよね。
コロンビア戦で幸運にも恵まれて勝利を挙げ、続くセネガル戦では引き分けています。そしてポーランド戦。僅差での敗勢だったのですが、別の試合の状況も見ながら意図的に消極的なプレーを選択。しかし、これが奏功してポーランド戦こそ敗れて勝ち点でセネガルと並んだものの、フェアプレーポイントの差でセネガルを上回り、辛くもノックアウトステージに進みました。
で、ベルギーと対戦して、どうなったか・・・、という話になるわけです。

ちなみに、このあと、日本代表は森保一さんを監督に迎えました。が、ロベルト・ドナドーニを迎えるだの何だのという妙な噂もありました。また、森保さんの就任以前にはユルゲン・クリンスマンの名前が挙がったこともありましたね。

前置きが非常に長くなりましたが、これを書かないと話が進まないと思ったものでして。
つまり、たかだか14秒程度にダウンサイジングできるような出来事ではないのですよ。あれは、日本代表が、少なくとも1993年以降蓄積してきたものが成果となって表れただけなのです。俺はそう思っています。

日本が体質変換できるチャンスはありました。トルシエさんの時です。あの人の流儀を上手く取り込んでいたら、たぶんハリルホジッチさんとあんな不幸な別れ方をすることはなかった。
日本にとっては劇薬のような存在の人かもしれませんが、全否定できるほど失敗した人心掌握術でもなかったと思うのですよ。
ところが、日本代表はトルシエさん(の流儀)と離れてしまった。ジーコさんも確かにある意味では厳しい人だったでしょう。例の「キャバクラ事件」はその最たるものかもしれませんね。
ただ、彼は「自主性」を無条件に与えても良いものだ、と思っていたフシがあるように思えてなりません。
「自主性」は確かに大事な要素でしょう。ですが、相応に「規律」があった上での「自主性」だからこそ光り輝くように思えます。「自主性」イコール「好き勝手にやらせること」ではないと思うんですよ。

よく我々は「○○の自由」などと言いますね。「○○」に該当するものは何でも構いません。言論、表現、結社、内心、信教・・・。
ですが「○○の自由」というものは、それらを「無制限に認める」ものではないと思うんです。
例えば、いくら我々に言論の自由があっても、それを盾に他者を誹謗中傷して良いわけではありませんよね。行為としてはできるかもしれませんが、その実行によって失うものも多々出てきてしまいます。
信教の自由などは、その信じる対象が社会的に害悪を及ぼすものであったならば、規制されてもやむを得ない面もあります。
このように自由というものは、ある程度の規律の範囲内でこそ認められるものだ、という気がするのです。規律がないのは単なるアナーキーな状態と何ら変わらないと思うのです。

もちろん、規律の遵守というもの自体は、容易に数値化・データ化ができる性質のものではありません。むしろ、それらの作業からは最も遠いものだと思います。
「みだりに人前で大声で放歌しない」という決まりがあるとします。この「大声」を具体的に数値で(例えば「○○デシベル以上」などと)要求すると思いますか?普通、そんなことはしないですよね。せいぜい、その空間に於いて不快になるようなものを「大声」と指す程度で。普通は、別に意図しなくても感覚としてつかめているものだろうと思うのです。
だから、人によっては「50デシベル」で「大声」となるでしょうし、「80デシベル」だったり、「100デシベル」だったりするかもしれません。
でも、数値で具体的に示すのではなく、感覚として「大声」と例示しておけば、何デシベルだろうが、その時の指導者が「大声」だと認めれば「大声」なわけですよ。
まあ、でも普通は、いちいち「何デシベル以上の声を立てるな」とか言いませんよね。
ハリルホジッチさんが「デュエル」の重要性をしきりに説いたのは、この「大声」のケースによく似ていて、彼の求めるサッカー像に於いて「デュエル」という用語は感覚として理解すべきものだと思われるのです。

「デュエル」というタイトルの映画が昔ありました。スティーヴン・スピルバーグが監督したものです。邦題は「激突!」と言いましたが、元々のタイトルは「Duel」です。トレーラーを追い越したばかりに、そのトレーラーに追っかけ回されるという、理不尽なのか何なのかよくわからない映画です。
俺にはこの映画の印象があるので「デュエル」の語はわりとすんなり入ってきましたし、その意味するところも何となくつかめていました。
しかし、この日本に於いては「デュエル」を、主にメディアが単純に「ハリルホジッチ流のサッカーを理解するための必須用語」みたいに矮小化してしまった辺りに、恐らく齟齬を来す原因があったのかもしれませんね。

だいたい、オフトさん以後、少なくともハリルホジッチさんまで(途中に加茂さんや岡田さんという例外こそありましたが)外国人監督を受け入れておきながら、その監督に何処かで「日本的なものを受け入れてもらえる」みたいな驕りというか甘えというか、そういうものはなかったのでしょうか?
西野さん、あるいは今の森保さんは日本人だから成功しているのではなく、彼らを迎えた方が、JFAとしては楽だから、だろうと思ってしまうのですよ。

オフトさん以後に来た外国人の監督が全て成功裏にその任期を全うできたわけではありませんよね。ファルカンさんのようなケースもありましたし、アギーレさんのような事例もありました。ですが、トルシエさんのようなケースもありました。しかし、ハリルホジッチさんのような不可解な別れ方を強いられるケースもありました。
例えば、この先何年かの後に「西野さん、森保さんでうまくいったから、今後もずっと日本人にしよう。もう担当能力も十二分にあるだろうから」などとして順送り人事になってしまうと、組織が硬直化してしまう恐れはないでしょうか?

JFAは外国人監督を選び続けた結果「日本人監督でないと選手とのコミュニケーションが阻害される」程度の結論しか得られなかったのでしょうか?それなら少なくともオフトさんの次には日本人を選ぶべきだったでしょう。にもかかわらず、呼んできたのはファルカンさんです。
若しくは、第1次岡田政権のあとも、トルシエさんを呼ばずに日本人監督を就任させるべきだったという気もしますが、実際にはトルシエさんが監督をやり、ベスト16というところまで来ていますね。そしてこのあとも、オシムさんがああいう事態になった直後を除いて、ハリルホジッチさんまで外国人監督を呼び続けます。
こういうデタラメが罷り通るのが、JFAという組織の最大の問題かもしれません。いや、たまたま今回はJFAが舞台になっているだけで、類似の事例は日本の他の組織にだってあり得ることです。

さて、「ロストフの14秒」についてなのですが、あれは再三言いますがあの「14秒間」が全てではありません。あれは単に実際の現象が起こった時間を表しているに過ぎません。
つまり、たまたま、あのクルトワのスローイングから始まったカウンターアタックが成立するまでに要した時間で、それ以外の何物でもないのです。
2-0とリードした時点で浮き足立ち気味になってしまったことも原因の一つかもしれませんが、それはあの結果を導いた要素の一つでしかないと思うのです。
ポーランド戦で消極的な試合運びをしたことを咎める声が出ていたことは何の理由にもなりません。この試合を一言で表すのに相応しい「損して得取れ」という箴言がありますわな。目先のこの試合に0-1で敗れても、その先に控えているであろう成果(ノックアウトステージ進出)を得ることが重要だ、ということですね。

残念なのは、あの事象に「ロストフの14秒」などというキャッチフレーズをつけてしまうことで、ただの消費財にしてしまったことだと個人的にはずっと思っています。
四半世紀近く辿ってきた経験をキチンと総括してきたのでしょうか。たぶん4年ごと(つまりワールドカップの大会ごと)にリセットされるべきもの、と思い込んではいないでしょうか。
例えばですよ。評価の下地となる相手戦力や戦況のスカウティング、それらを何処までやったのでしょうか。ハリルホジッチさんがどの辺りまで要求したかにもよりますが、詳細なデータを欲していたとするなら、いい加減なスカウティングはすべきじゃないですよね。
そういう手間をどこまで、惜しまずにやれたか、が、結果に反映されるものと違うのでしょうか?
「あの人、言ってることはエラそうだけど、何か感じ悪いよね」的な感想をベースに「コミュニケーション不足」だの「信頼関係が薄れた」だの、飛んだお笑い種としか言いようがありません。子供のいじめみたいな理屈じゃないですか。それを大の大人が振りかざすんですよ。
昔、「ウッチャンナンチャンのやるならやらねば」に登場したウッチャンが演じた満腹ふとるくんみたいな面構えの現在のJFA会長氏は、そんな理屈をさも当然のように振りかざすんですよ。それが大人のやることかと思いますがね。

今回はベルギーと対戦したのですが、これがもし仮に日本が同組のコロンビアの立場だったならイングランドと対戦していた可能性が考えられます。
イングランドもベルギー同様に厳しいチームなので、やはり難しい試合が予想されたでしょう。
ベルギーは2002年の日韓大会で引き分けている相手です。ですが、16年前と後では全く違います。Jリーグで喩えると、湘南ベルマーレは同じ頃J2にいて将来のJ1復帰を夢見ていた頃です。しかし、今はJ1に何度目かの復帰を果たし、あまつさえ定着しようとさえしています。16年の間に選手ももちろん、監督も代わりました。

しかし、中には16年前は惜しくも引き分けたが、今度こそは、みたいなことを思う人もいたのではないですかね。
だけど、そんなに簡単に事が運んだら誰も苦労などしません。勝負は水物、何かのきっかけで潮目が急変することだってあります。ロストフの14秒もそれと同じことなんですよ。
あれしかない、という機を見つけて、クルトワはああいうプレーに出たのだろうし、デブライネがそれを広げた。ラストパスが出た時、長谷部が足を出して矛先を変えようとしたみたいですが、ルカクがシャドリの存在を関知していて敢えてスルーしたわけです。もうそうなるとシャドリがよほど下手にプレーをしない限りはゴールにボールが吸い込まれるしかありません。

あれは本当に偶発的な失点だったのでしょうか?そんなことはないはずです。とあるドキュメンタリー番組の冒頭の台詞をもじれば「敗北は決して偶然の産物ではなく、連鎖的な出来事の積み重ねだ」となるような気がします。

考えられるいくつかを挙げてみましょう。

【1】日本がそもそも自主性にあまりにも拘泥しすぎた
【2】指揮官を更迭する理由があまりにも幼稚すぎた
【3】戦術的なアップデートがあったかどうか疑わしい
【4】結局、終わり良ければ全て良し、になってしまった

【1】日本が自主性にあまりにも拘泥しすぎたことと【2】指揮官を更迭する理由があまりにも幼稚すぎたというのは、同じようなことを言いたいわけです。コミュニケーションの欠如や信頼関係の不足を理由に持ち出す場合、一方の当事者の意見だけでは不公平な裁定になりがちです。しかし、JFAの会長氏は選手側の意見だけを判断材料にしてしまったような気がします。ハリルホジッチさんの言い分は聞くに値しないと判断されたのでしょう。
しかし、これを一般の企業に置き換えても良いと思います。例えばある社員を辞めさせる必要が出たとしましょう。しかし、事情を訊いた結果、免職に値しないと判断されるケースも出るかもしれません。JFAの場合、ハリルホジッチさんを辞めさせることありきで、辞めさせなくてすむケースを恐らく想定していなかったのではないでしょうか。
【3】戦術的なアップデートがあったかどうかという辺りはあったのかどうかは判断できかねる、という気がします。ただ、あのようなカウンターアタックの可能性を想定していなかったところを見ると、恐らくはなかったと見るべきかもしれません。
海外で多様な戦術と遭遇する機会を持っている選手たちでさえ、それらを有用にフィードバックする術は残念ながら持ち合わせていなかったのかもしれません。無論、指導者をはじめとするスタッフにも望むべくもないことは、今更論を待つまでもありません。
【4】結局、終わり良ければ全て良し、になってしまったという点はどういうことかと言えば、ハリルホジッチさんを切るというダメージを負わせておきながら、後任の西野さんがそれなりの成果を出すと、そのことに満足してしまった、ということを指します。
その次の森保さんがそこそこ順調な船出である今、尚更かもしれません。現状が良ければ、そこまでの点で問題があった場合、それらを洗い出す作業を殊更に面倒くさがるのが我々かもしれません。
しかし、そうなると、結局今までの経験はどういう教訓を生み、それらをどういう形で活かすべきなのか、全く読めません。いや、問題がA代表だけで完結するようなことだったら、まだそれでも良いのかもしれません。
が、恐らく世代縦断や選手間の横断的な連携が必要になってくる場合、そんないい加減なことでうまくいくのでしょうか?

俺はハリルホジッチさんを殊更に弁護しようとする立場ではありません。彼にも良かった(であろう)点はありますし良くなかった(であろう)点もあります。ハリルホジッチさんだったらベスト8以上に行けただろう、などという根拠の乏しい予測などできません。ひょっとしたら、ノックアウトステージにすら到達しなかった可能性もあるわけで、彼についてのそういう意味でのifは、あまり口にしない方が良いと思うので、言いません。
ただ、機会を与えなかったことは、果たして正当と言えるのか、という話をしたいだけなので。

西野さんはああいう状況の下では確かに健闘されたでしょう。それを否定する人は少ないでしょう。俺も否定はしません。ただ、それは代表監督という激務をたとえ短期間でもこなしたという意味合いに於いての話で、監督を含む技術委員長としての職務にあった頃も含めて、代表のスタッフとして上々だったのか、という辺りは別個にすべきじゃないかと思うんですよ。俺がしばしば口にする「それはそれ、これはこれ」という論法ですね。無論、この論法にも問題はあると思うので、強制はしませんし、推奨もしません。

恐らく、あの14秒間だけで全てを判断するのは、あまりにも無謀だし、有用でないと思うのです。もしあの14秒間を問題にするならば、あのベルギー戦全体を俯瞰して見てみるべきで、本来ならばあの大会そのもの、あるいは大会に向けたプロセス(それこそ4年前から見るのならアギーレさんやハリルホジッチさんがクビになったりした件も含みます)などをこそ問題にするべきで、それをあの瞬間だけの問題に矮小化してしまってはダメだと思うのです。恐らくフェアネスを欠く出来事になるでしょう。
なるほど、テレビ的にはそれもありかもしれません。しかし、それも行き過ぎると「映像化されたNumber文体」を多数生み出すだけだろうと思うのです。
プレーのディテールに、できるだけファクトを以て近づいてほしいのです。できる限り平易な表現を用いて。そうしたら、もう少し違った世界が見えてくるかもしれませんよ。

あの番組はドキュメンタリーバラエティとしてはよくできていると思います。年末には、あれの倍近い尺がある「完全版」なるものが放映されるそうですが、恐らく単純な「尺の増加」に過ぎないもので、恐らく番組の意図に沿わないような新たな事実などは出てこないでしょう。
実際はどうなのか知りませんが、恐らくは新事実など登場しないと思っています。ひょっとしたら将来の映像ソフト化もあるかもしれませんが、サッカー関係者が間違って手にすることはあったとしても、恐らくパンピーの多くは買わないだろうと思うのです。
だって、あの番組、サッカーに興味を持たない一般大衆向けの番組ではないんですもの。恐らく、オシムさんが登場する頃には惰性で見てるだけの状態かもしれませんよ。
なので、そういう番組の尺を徒に延ばしたところで、誰もハッピーにならないのではないか、という気がしてなりません。

と、まあ、サッカーという競技に関して素人じみた見識しか持たない俺が、このように長々と馬鹿げた講釈を書き連ねてきたのは、あの試合をたかだか14秒程度の事象だけで捉えるような真似は止めましょう、ということを言いたいからだけでして。
ナショナルジオグラフィックチャンネルというところでやっている「衝撃の瞬間」の冒頭ではこういう台詞が語られます。

災害は偶然の産物ではありません。何らかの連鎖的な出来事の結果です。

災害がそうであるように、試合で起きた出来事も、同じように何らかの連鎖的な出来事の積み重ねによる結果、という認識を持ちたいものですね。そうすることで、これまでとは違った見方が可能になるかもしれませんし。

基本的に他人様にどうこう、と偉そうに提示するような文章ではなく、「こいつ、馬鹿でぇ」と軽くお読みいただけるような文章を書き発表することを目指しております。それでもよろしければお願い致します。