見出し画像

アラフィフになって思い出す 母の名言

うちの母が常々言っていたことのひとつに「なすびの花とおんなじで、咲いて実がならんもんはない」というのがある。

ずっと「はぁ、そうでっか。」と聞き流していたが、最近つとに「ほんま、人生『なすび』やなぁ」と感じる。

私は昔からいわゆる「器用貧乏」。何をやってもまぁまぁそこそこできるようにはなるが、ひとつのことを突き詰めて極める域までやることはなかった。勉強もスポーツも仕事も、ちょっとやってみれば「一定レベル」まではなんとかなる。その割に興味関心が多いというか、大阪弁でいう「きさんじ」(気が多い性格)で、ひとつのことをずっと続けるのは苦手。色々なものに手を出し、どれひとつ大成しないまま今の私が作られてきた。

なので、経歴も とっ散らかっているし、肩書きもひとつに絞れない。やりたいこともバラバラ。いつも自己紹介の時「何をされてるんですか」という質問の答えに窮する。

が、その「とっ散らかった肩書き」や「幅広すぎる興味関心」、「一貫性のない経歴」も、悪くないなぁ、と思うようになった。

DX人材育成プログラムを受講してみて

今、デジタル推進人材育成プログラム「マナビDX Quest」を受講している。プログラム内ではケーススタディとして、とある架空の企業の課題解決のため、資料から課題を掘り起こし、データ分析・AI実装をおこない、DX推進を企業に提案するためのプレゼン資料を作成した。開始から約2ヶ月、1つめのケーススタディの最終課題提出を昨日終えた。

私が企業勤めを辞めて6年以上。「社会人」かどうかも定かでないと自覚しながら参加を決意したが、最終課題提出までなんとかたどりつけた。
内容のクオリティを棚に上げれば「やり切った感」もあり、提出完了後、自分で自分を褒めた。

飽き性で何事も続かない続かない自分なので、今回のプログラムも最後まで続くかどうかはかなり不安だった。ビジネスの感覚は遥か忘却の彼方だし、日々会話するのは家族と英会話を教えている小中学生5人だけ。
何もなければお笑いYouTubeを一日中見ていた生活から一変、プログラミングの新しい言語を学んだり、なんだかワケの分からない「AIモデル」とにらめっこしたり。頭の中はすでに「飽和状態」。

「これやって何になるんやろう?」という疑問が何度も頭に浮かんだ。そのたびに、冒頭の母の「なすびの花」の名言を思い出した。

明日からDXの仕事ができるわけではない。来年の年収が10倍になるわけでもない。でも、まぁ、世の中にはそんな技術もあって、それを伝えることで誰かの仕事がチョット楽になったり、夫が仕事から少し早く帰れるようになったりするのかも。それくらいの役には立つかなぁ。

「役に立つ」だけでやることを決めなくて良い

そもそも「役に立つ」という直接的な見返りがなくても良いとも思うようになった。大学時代は英語を勉強していて、会社勤めの時にはそれも「役に立って」いたが、今の生活ではほぼ役に立つ場面はない。それでも、勉強していた時の「分からないことに対する耐性」とか「知っていることから推察する勘」とか、直接の「英語の知識・スキル」以外の部分で生きていることも多い。

20〜30代は「こんなことして何の役に立つねん」とか「これやったらXXの役に立つかも」という観点で物事に取り組んでいた。けれど最近は年の功で「すぐ直接何かの役に立つわけじゃないけど、いつか『あぁ、あれやっといて良かったなぁ』と思うこともあるかもよ〜」くらいのノリで色々できるようになった。その度に「なすびやなぁ。」と、母の名言集を紐解くことになる。

出た、名言!

母の好きな名言、他には

− 「大丈夫、神さんまわしてはる。」(特定の宗教の「神」ではなく「うまくいくよ」の意味。)
-  「開けたら閉める。出したらなおす。」(「なおす」は大阪弁で「しまう」の意。)
-  「実るほど こうべを垂れる 稲穂かな」(これは、母オリジナルではない。それで言うと「なすび」も母オリジナルではない)

などがある。

「なすびの花」の名言も、スティーブ・ジョブスが語れば、かの有名な「Connecting the Dots」のスピーチとかになるんだろうけれど、私の中では「なすびやなぁ」のままで良い気がする。なんか、その方が、スッと思い出せるから。まぁ、このnoteも書いたところで、誰の何の役に立つかも分からないが、書かないより書いた方が誰かに届くだろうから、と思い、「公開設定」のボタンを押すことにする。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?