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散歩の途中 18

キャッチャーやります

 取り残された細長い土地はマーケットの壁越しで反対側は今はビジネスホテルになっている。
 この土地はうちの祖父(じい)さんがやってた酒屋の空き瓶のケースを積み上げていた場所だ。祖父さんは五、六年前まで元気に商売をやっていたが、同じ通りに安売りの酒量販店が駐車場付きでオープンして客足がぱたりと止まり、古くからの馴染み客への配達だけで細々と生き延びていた。
 老舗といってもたかが酒の小売店である。いまどき食っていけんわな。そんなわけで親父はあとを継がずサラリーマンになって母親と各地を転々としている。
 「伊賀地酒店」というのが祖父さんがやってた店で食料品もあって、若い頃は港通りでは羽振りのいい一番店だったらしい。店の一隅には立ち飲みの一角があって、工場帰りのおっさん達がコップ酒をぐいーっと飲み干して家路に付いた。大きな製鉄所、造船所が昼夜三交代で操業し、夜勤明け、日勤は二種があり、店の一角からはコップ酒の臭いの入り混じった赤銅色の工員たちの体臭が漂っていた。

 伊賀地ブルペンはその細長い伊賀地酒店所有の土地に生まれた。祖父さんの酒屋が店を閉じ、うずたかく積まれたビールケースや樽の残骸を片付けると間口四米、奥行二十数米が更地になった。
 酒屋のあった場所はそのまま地場のスーパーが買取り、祖父さんは駅裏のマンションに移った。
 細長い土地は、間口を広げた辺の長いラッパ状で残り、そのうち市道の拡張で変形三叉路の整備予備地となり残された。
 酒屋のビールの空きケースが積んであったこの場所は子どもの頃は格好の遊び場だった。
 ブルペンにしようと思いついたのはバッテリーを組んでいたタカシが東京から戻って来て、呑んだ時のこと。肩を壊して大学で野球をあきらめたらしい。あまりに落ち込んでいるので久しぶりに受けてやろうか、と誘ったら、思いがけず「おう、やるか」と返してきた。
 高校の時のミットが倉庫にしまってある。ボールは確か新球が銀紙に包まれたままのがひとつあるはずだ。「グランドまで行くか」いうんで「うちの裏にあるわ」と出来たばかりのブルペンに誘った。

 マウンドに土を入れた。同じことなら甲子園のマウンドに合わせて34糎の高さに慣らした。18.11米はきちんと巻尺で測り、高校の部室から、古くなったホームベース板を置いた。マウンドに立つとなかなかのものだ。振りかぶると背筋がゾクゾクとした。「立派なブルペンじゃん」
 誰かに話したくてまずKBARのマスターに伝えた。早速、見に来てくれた。「投げてみますか」っていうとニヤっと笑い、腕をぐるりと回す仕草をした。「だれも一度、投げてみとうなるはず。みんな一回はピッチャーをやりたいもんや。毎日でも来るぞ」。そんなわけで最初の客となった。
 バッティングセンターがあるのだから、ピッチングセンターもあっていい。マスターの知恵で「キャッチャーやります」の看板を立てようということになった。デザインをやるヒロシに頼むと「ええよ」と下書きし、塗装屋の沖本がアーチ型の入口を作った。みんな高校時代の野球仲間だ。
 
 伊賀地元太、つまりオレだ。高校では強打強肩の捕手として鳴らした。この町ではヒーローだったがその名を知る人は、オレのまわりだけでこの町でももう少ないだろう。ドラフト外でプロ野球に進んだのだが、球団の目論見はブルペンの捕手として一番頑丈そうな高校生を選んだらしい。あとで聞いた話だ。
 入団した春のキャンプで「こりゃあ世界が違うわ」と足が竦んだ。自慢だった打撃も二軍の打撃投手の球に当てるのがやっとだった。ブルペンに初めて座らせられた時も、二線級の投手の変化球の切れについて行けなかった。目の前が絶望的になった。「これがプロいうもんか」
 二軍戦に帯同してもっぱらブルペン捕手に専念した。カベと呼ばれていた。三年間、ウエスタンの試合にも出場できず二軍ブルペンが定位置。四年目に同じ役割のガタイのいい高校生がやはりドラフト外で指名され、お役御免になった。球団からはいちおう用具担当の職を勧められたが、「田舎に帰ります」と断るとあっさり「ご苦労さん」と言われた。「三年プロのめしを食った」なんては恥ずかして言えず、祖父さんとオヤジに「ただいま」というと「おう、おう帰ったか」と嬉しそうにうなづいた。

 共栄産業というのは地元の産廃処理を一手に引き受ける新興の会社である。社長の児玉さんは中学を出て裸一貫でいまの会社を築き上げた。ここまでの会社にするまでいろいろあったらしい。間違えば、塀の内側に落ちるような際どい商売をしてきたが、いまもちゃんと塀の外側にいる。この町では立志伝中のヒトである。
 地場中小企業の団体の代表、息子二人の小、中学校のPTA会長、町内会長とありとあらゆる役職を買って出る。押し上げられたわけではない。どこも不景気で業界や地域の世話ごとに手が回らないなかで「児玉のオッサンに頼めば、やるやろ。好きやから」。その通り、断りもせずに、多い時には七、八つの肩書きを持ち、名刺の裏はそんな長ったらしい役職で埋まっていた。
 その児玉のおっさんが昨夜いきなりブルペンを訪ねてきた。元太に「おりいって相談」いうから何のことかと思ったら、「投球練習したいんや」と真剣な顔で言う。
 市の中学校のヤングリーグの開会式で始球式やることになったらしい。
「どうしてもお願いしたい、と頭下げられてしもうて」と児玉社長はいうのだが、実はといえば多額の寄付に大会主催者側が気を遣ったらしい。
「わしは中学しか出とらんが、港中じゃあエースで鳴らしたもんよ。工業高校でも行っとりゃあ甲子園かのう」。若いもんにさんざん自慢してきたらしい。始球式で無様な姿は見せられんという。
中学で野球やったのは嘘ではないが、三年間レギュラーにはなれなかった。
野球にはうるさいが腕にはあまり自信がない。ただエエかっこばかり言うてきたんで、球がキャッチャーまで届かんと格好が悪い、と言う。カッコしいの社長にしてみれば、さっそうとストライクを投げて帽子を振って見せたいところだ。
大会まであと二週間しかない―。社長は頭を抱える。
 「なんとかなるんじゃないの」。元太はあっさりこたえた。そんじゃあ、夜いつでも時間作って通ってみたら。ブルペンの特訓でカタチつくるよ。社長は「お願いします」と殊勝に頭を下げた。

 そんなわけで連夜の特訓である。業界の飲み会を断ってきたという児玉さんはブルペンに入るとジャージに着替え、屈伸と腕をぐるぐる回し、準備を始めた。やる気満々のようだ。買ったばかりのグラブを取り出すと、緊張した面持ちでマウンドに上がった。
 「軽くキャッチボールから行きますか」
元太が声をかけると頷いた。振りかぶって投げるととんでもない方向に流れた。「社長、リラックス、リラックス」「おう、おう」。
二球目も力が入って元太がジャンプしても届かぬ高さである。「ちょい近づきますか」。
 元太が二、三歩前に出た。「オレのミットめがけて楽に放り込んでください。肩にリキ入ってますよ」「わかった、わかった」
 これほどまでとは思わなかった。たかがキャッチボールである。社長はガチガチなのである。一世一代の晴れ舞台に緊張しているのだ。

 ヤングリーグの開会式といえば、野球どころのこの町にとってはビッグイベントである。中学生はこの大会を目標にしている。来賓には市長も県会議員も市会議員の主だったものも並ぶ。選挙が近ければ国会議員も来ることがある。
 市長が始球式をしたことがあるが、市長一派と流れの違う国会議員や大物県議が「なんであいつや」と異議を唱えたことなどがあった。政治家から地元経済界の面々を、なんとか大口寄付でそこそこ役職のある児玉さんで折り合いを付けたのである。

 特訓は連夜続いた。あと三日。ボールはようやく安定し、元太のミットに届くようになった。山なりではあるがミットにおさまればポーンと響く音を立ててやった。「壁」捕手は球が走っているように思わせるため工夫はお手のものだ。
 児玉さんも自信を深めてきた。あとは本番で下手に緊張しないこと。いいカッコしようといつもと違うことをしない。ただ捕手のミットをめがけて無心になげこむこと。元太は繰り返して告げた。
 二週間前を思うと格段の成長ぶりだ。セットポジションで大きく軸をぶらさず軽い気持ちで投げる。
 本番前日もやってきたが、元太は「ばっちり、自信をもって普通に投げれば大丈夫」と肩を押した。

 日曜日。晴れ上がった空に何発も花火があがっている。いよいよ開幕。市民球場には開会式に五千人以上が集まっている。セレモニーの挨拶が延々と続き、ようやく第一試合へ。

 スタンドから児玉さんの姿を探すと、ダグアウト脇で背広に顔の大きさほどの赤いリボンを付けられ、市長、議長、議員らと並んでいる。
 コールされ、背広を脱いでYシャツの袖をめくりあげながらマウンドに近づいた。右腕を二度ほど回した。遠目にも緊張が見てとれる。スタンドを左右、正面と順に見回し、ぎこちなく頭を下げた。
 審判から新しいボールを手渡され、プレートを足で確かめた。
 グラブの中でボールを握りしめながら、あろうことかキャッチャーのサインを覗きこむ仕草をしはじめた。
 元太は、やばいな、と感じた。セットポジションでシンプルに投げ込むはずが、なんと大きく振りかぶった。
 足はあがったが、ふらついた。ボールはどこへ。見えなかった。スタンドはどっと沸き、バッターは一応、空振りのスイングでこたえた。
 見えないわけだ。投げたはずのボールは足元からマウンドの傾斜をころころと転がって止まった。

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