見出し画像

ふと思ったこと。

ふとした拍子に自分のために生きるのは難しいのではないかと悟った。いや、悟ったというよりは、ぼんやりとそんな気がした程度の思い付きだったかもしれないが、何となくそんな気がした。そんな気がしたのはなぜだろう。ただのそんな気だったのだろうか。わからない。わからないが、今の心持ちでは危ないなという暗い気持ちになった。

わからないということは一番に恐ろしい事態だ。対処法がないのだから、じたばたかじっとして時が慰めてくれるのを待つしかない。いや、時は慰めてはくれないが忘れはさせてくれるだろう。それでも、完全に忘れられるわけではない。得体の知れない何かが喉元につっかかる感じ。そして、えへんと言わすのがえへん虫の仕業だ。というのはどうでもいい話だが、やはり一人の時間が長いことが原因でマイナス思考が止まらないのだろうか。もしかすると、人に囲まれながら生きている人はそうすることによって寂しさや孤独を紛らわせているのかもしれない。

「悩みすぎ」「考えすぎ」と言われてきたが、それは悪いことなのか。たしかに、何の苦労もないように生きている人は大勢いるように思う。しかし、誰もが何かしらを抱えながら生きている。私に「考えすぎ」と言った彼女も考えすぎの部類の人だった。そんな人に「考えすぎ」と言われても「あなたも考えすぎじゃないか」と言い返したくなる。けど、言い返せない。ここだ。言い返せないところに私の生きづらさが隠されているのではないか。意見をはいはいと聞いている事が良いことだと思っていないか。思っている。返事が早すぎると上司に怒られそうだが、今上司はいない。絶賛転職中だから。大して明るくないのに明るく振舞おうとしていることも鑑みると、私は自分に対して嘘が多すぎるように思う。本当は言い返したい時にも、言い返さずに自分の中でふつふつとなんだかわからないもやもやを勝手に燃やしている。まるで自慰行為だ。しかし、自慰行為のような気持ちよさはなく、あるのは気持ちの悪い暗さだ。自分を隠し過ぎだ。誰かに解放しないと、腐っていく。だから、一人で生きるなんてことを考えていたらいけない。人に会って、自分を出して、自分を好きになったり嫌いになったりしてもらいながら生きていないと腐る。この腐るは死ぬよりも辛いように思う。生きながら死に得るようなものだから。死んだ魚の目なんて言われたくない。

「生き生きと誰かにウザがられるくらいの方がちょうどいいって」と心の中のわたくしめが存じております。自分のエピソードなんてどれも取るに足らぬ戯言みたいなものだ。そうならば失敗や正しさに恐れ戦いていてはいけない。闘志はなくとも、生き生きとした人でありたい。そこからは自分の力ではなく、何かしらの力が導いてくれるはずだ。他力本願まで言わないが、自力では本願寺にも辿り着けそうもないので、頑張りすぎずに自分の出来ることをやっていきましょうか。同じようなことをぐるんぐるん書いているように思うが、それでいいよね?

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?