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「答え」が応えるもの

いつもこちらから主体的に思想や世界をつかみ取りにいかないといけないのが古典であり哲学であり、エッセイであり、特に小説である。

小説は、
あきらかな答えがわからず、謎もおおく、理解できないこともたまにある。
ものによっては長く、幻想とか形而上的な、私にとって意味不明な展開を羅列される。

自らが外に向けて「問い」を立てている時、早く簡潔に「答え」を求めて、すでに答えが書いてある部類の動画や本に手を伸ばすこともあるだろう。
しかしながら、重要で骨太な「答え」が手早く簡潔に手に入れられるものかどうかは自分にも問うてみるべきである。
ときどき、「小説ってなんのために読むの?」や生産性がどうのこうのという発言を耳にすることもあるが、私はそう思ったことは一度もない。

近くの答えを求めた先にある応えは「省略ができた」という高い生産性だろうか。
答えが応えてくれるものに含まれる内容が”それ”なのであれば、すこし寂しい感覚を覚える。
人間の深さや幅はどこまでいっても、生産性というモノサシなんかで測ることはできない。
資本主義経済が定着したのは人類の歴史をみてもここ最近であることは誰にも隠されていないが、意外と見過ごされているかもしれない。

・生きることのクオリティは、成績や数字や順位といった固定的なものにではなく、行為そのものの中に流動的に内包されているのだ。

・人生というのは長距離レースみたいなものです。長い時間をかける勝負です。途中で誰かに抜かれたり、誰かを抜いたり、そういうのってあまり大勢にはほとんど関係ありません。自分のペースを守ってゴールを目指すことが何より大事になります。途中経過は気にしないで、自分のペースをつかんでください。
村上春樹
『走ることについて語るときに僕の語ること』
『夢を見るために僕は目覚めるのです 村上春樹インタビュー集』


日常はついつい目の前のレースや道だけしかないように感じてしまうが、実はすべてが連結している一つの長い道のようなもので、
目の前に見えているだけのレースや道で、
”だれかを抜いた・だれかに勝利した”とか、
”だれかに抜かれた・だれかに負けた”などに、
たいそうな意味は含まれていない。そしてレースかどうかも不明である。
10年前、5年前、3年前、1年前、半年前、1か月前、1週間前、昨日、の自分が持ち合わせていなかった言葉(感情)や思想や心、哲学や技術や筋肉を、
「今日も明日も少しずつ。」蓄え、積み重ねられている感覚を持ち合わせていれば十分な気がする。
特に学生時代に一緒に汗を流してきた友人の多くに、この感覚を無意識に持ち合わせているかっちょいい男が多く、目の前に見えているだけのものにほとんど一喜一憂はしない。
数百万キロある長い道のりの内の「今この数千キロ地点で靴ひもを結んでたら遅れたけど、目標タイムで必ず完走する」と今にも電話がきそうなくらいである。


わかりやすい「答え」ではなく、わかりにくい「問い」が含まれている


小説というものに、答えというものはなく、ただただ思考させるための世界や言葉や感情を、答えから離した場所に「わかりにくい問い」として提起しているだけな気もしてきている。
振り回されることはもうやめましたが、私の思想はすでに著者に振り回されているのかもしれない。

ある場合には運命っていうのは、絶え間なく進行方向を変える局地的な砂嵐に似ている。君はそれを避けようと足どりを変える。そうすると嵐も君に合わせるように足どりを変える。君はもう一度足どりを変える。
するとまた嵐も同じように足どりを変える。
何度でも何度でも、まるで夜明け前に死神と踊る不吉なダンスみたいに、それが繰り返される。
なぜかといえば、その嵐はどこか遠くからやってきた無関係な何かじゃないからだ。そいつはつまり、君自身のことなんだ。君の中にあるなにかなんだ。だから、君にできることといえば、諦めてその嵐の中にまっすぐ足を踏み入れ、砂が入らないように目と耳をしっかり塞ぎ、一歩一歩通り抜けていくことだけだ。
村上春樹『海辺のカフカ』

目先の答えを知ったところで、運命は絶え間なく進行方向を変えて、翻弄してくる。そして目先(最新)の答えは賞味期限が短い感覚がある。



そのときはそのときで考える


・そのときはそのときで考える。
村上春樹『海辺のカフカ』

冒頭7ページ(カラスと呼ばれる少年)で出てくるフレーズで、カラスと呼ばれる少年はそう言った。

いくらどうしようと決めたところで、そのときはそのときで違う見方や認知・感じ方をして、そのときはそのときで考えるものなんだと。
まるで、猫や犬などの動物が日光を浴びてぬくぬく昼寝をしているみたいだ。

眠かったら寝る。お腹がすいたら食う。起きられなかったら、そのときはそのときで考える。そんな思考が顔からにじみ出ている。

左手が肉まんみたい

彼、彼女らは過去とか未来とかに悶々と悩み苦しむことは一切なく、
今この瞬間の、呼吸や音、太陽の有り難さや森羅万象の彩り、生きているという実感に満たされているだろうスーパーリアリストである。

今生きている猫としての生活が彼らにはじゅうぶんな意味を持っている。それに対して人間は自分たちの生活を超えたところに意味を探すことをやめられない。
彼らは自分が送っていない生活に憧れたりなんかしない。
ジョン・グレイ、鈴木晶『猫に学ぶ――いかに良く生きるか』





おわりに

『カンガルー日和』に収録されている『四月のある晴れた朝に100パーセントの女の子に出会うことについて』という短い作品。『1Q84』のモチーフになったとか。
嘘のない嘘がとても素敵なので是非。


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