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学校という社会構造への批判

久しぶりに自分の卒業論文を読んだ。
私の原点はここにあるなあって思った。

『批判的リテラシーの形成に関する一考察』

批判的に物事を捉えられない自分が嫌いだった。
そんな思いが溢れた論文になったと思う。

教師になった私は何ができているのだろうか。

優れた友人や先輩達は、科学的視点から理論化、体系化する力がある。本当にすごい。

一方、私は何ができるのか。

これまで蓄積されてきた歴史上の教育論をもとに、それを実践知として積み上げ、体系化することはできないか。

今は、そう考えている。感じている。

いつか、胸を張って
批判的に物事を捉え、自ら考え行動できる人が育つ場所をつくっていると言えるようになりたいと思う。

日本の教育現場の向かう方向性への批判

全国学力状況調査の結果に影響を受ける現場。

これは先生が悪いわけではなく、行政の問題だ。

教育は、政治的な側面と経済的な側面の中立性が保たれる必要がある。

教育的な環境配慮は居住者を増やし、経済的な効果を生む。
調査の結果の使い方によっては、学力が上がれば、子育て層は増える。

しかし、一市民として政治に意見する権利も持つ。

少なくとも、私たちの働く土地では経済的な側面の強調が学校現場の学力主義と多忙化を助長している。

学校で育つ市民は、本当に政治に意見することができるのだろうか。

教育が行政や国政において、第一義的に経済効果の対象とされた場合、この国は終わる。

教育は、これからを創る市民が育てるためにある。

その思想が育っている国ほど、学力が高かったりするものだ。

浅く見れば、一教員の低い視線から見れば、
日本の教育は目的を履き違えている。

学校における 教師と子どもの権力関係

学校は権力構造を再生産している。

国における、政治の私物化。

教師は、学校における制度を私物化していないか。

大人都合で解釈された場になっていないか。

教師は、子どもに知識を注入しようとしていないか。

そして、その知識は子どもに必要なのか。

かつて、フレイレが批判した銀行型教育。
言い換えれば、丸暗記教育。

私たちは、まだその域を出られていないのではないか。

与えられる知識に口を開ける子ども。

知識を与えるために、口を開けさせる教師。

私たちは、自分達が歩んだ道をまた子どもに歩ませてはいけない。

しかし、歩ませることしかできない私たちはきっと、無知で勉強不足なんだと思う。

心理学や脳科学に基づく記憶や学習の理解。
教育学や社会学における、社会と教育の結びつき。

日本の教育現場は、現場主義から抜け出せず未発達すぎるのかもしれない。

アカデミックな学問と教職教育学の乖離が埋められない。

私が大切にしている教師像

フレイレから学んだ
ジルーは『個人の差異』に着目した。
そのジルーが提唱した教師像

変革的知識人としての教師

個々の違いがこれまで以上に強調される、これからの時代の教育において必要な考え方だと思う。

1.解放的権威
私たち教師は権威を持たないことはできない。
だからこそ、自身の政治的思想や道徳的価値観の偏りを理解し、それを開示する必要がある。
そうやって解放的になり、権威を確立させていく。

2.学習者の分析
学習者を無色透明な孤立した存在としない。
さまざまな文化、人種、ジェンダーなど経験の差異を持つ存在と捉える。学習者には、自身の歴史や声、経験を批判的に話し、書き、主張できる状況を教師は提供する必要がある。

3.境界を越える人
自らも社会的、政治的、歴史的に構成された存在であることを理解し、他者との差異を理解するために対話し、自らの価値、政治的立場、指導法の限界や部分性を自己批判的に理解する。
学習者に吟味され、自己の枠を変容させようとし続けることで絶対的権威化は避けられる。


これまでの教育の研究において、ミジンコのような存在の私は、これまでの研究を心から尊敬する。

歴史の上に立ちながらも、未来を創る立場にある。

今から教育は大きく変革が求められる。

その一翼を平凡な私も担いたい。

#教育学 #教育 #学校 #フレイレ #被抑圧者の教育学 #批判的リテラシー  

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