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僕が大手企業を辞めて芸人になった理由


先週、僕と新入社員キラーとの淡い奮闘日記を書いた。

それがこれ。


その際、僕が社会人を辞めて芸人になるくだりを省きに省いたので、今日はそのお話をしようと思う。




20歳で地元の福岡を離れ、一人で京都へ赴任した。

誰も知り合いがいない土地。
京都なんて中学の修学旅行でちょろっと金閣寺を見に行ったぐらいで、何の思い入れもない。
しかも、修学旅行で大阪奈良京都と回ったのだが、京都だけ土砂降りの雨だった。
全生徒が傘をさす中、僕だけ傘をささず真っ青のカッパを着ていたのを思い出す。


地元と実家だいすき人間の僕は、一人で知らない場所へ行かなければならないというこの状況に不安しか抱いていなかった。

案の定、京都に住み出して半日で猛烈なホームシックが押し寄せてきた。

同期もいるし会社の人は優しいし飲み会もいっぱいあるし美味しくて安くて暖かい居酒屋さんもいっぱいあったけれど、どうしても僕の寂しさは埋まらなかった。

僕の実家は、山と田んぼに囲まれ目の前には川があり、猪や猿と頻繁に遭遇するような場所なのだが、僕が最初に住んだ京都のマンションは、地元を彷彿させるぐらいの田舎だった。

それが、唯一の救いだった。
京都に行った初日に、道路で鹿を見たときはすごく驚いた。
最寄りの駅は無人駅で、キセルし放題だった(もちろんしたことはないけど)。

京都の家の目の前には綺麗な河原があり、そこの階段に座ってぼーっとするのが割と日課だった。
朝でも昼でも夜でも、空虚感に襲わればその河原によく出没していた。

一度、ある眠れない夜にそこの河原に行くと、全く同じ表情をした会社の先輩がいてすごく気まずかったことがある。
その先輩はとても明るい人で会社内でも気さくに話しかけてくれるのだが、そんな人でも色々な思いや感情と戦っているのだなと、強い人間なんていないのだなと、そう感じたのを覚えている。

僕は、ホームシックすぎて一度だけ、本当に一度だけ、夜眠る前に昔の写真フォルダを見返してギャン泣きしたことがある。

何か強く心が揺さぶられた瞬間以外で、自然に涙がでたのはこのときが最初で最後かもしれない。


そんなホームシックをかき消すべく、僕はとにかく仕事に打ち込んだ。

とにかくいっぱい働き、とにかく勉強した。
最初の1年で資格を3つもとった。

そして、毎日のように酒をたらふく飲んだ。

ホームシックによる空虚感を拭うには、目の前のことにひたすら打ち込むことと酒に酔うこと、その二つぐらいしか僕には思い浮かばなかった。

だが、なんとそれが功を奏し、ホームシックが徐々に薄れていった。
薄れていったのか自然と慣れていっただけなのかはわからないが、とにかくもう今置かれている状況で楽しむしかないなと、全力で頑張るしかないなと、そう思えるようになっていった。

そして、怒涛の1年が過ぎ、僕は家を引っ越すことになった。

僕が住んでいた家は、会社が丸々一棟借り上げているマンションだったので、新入社員が入ると同時に自然と追い出される形となった。

河原から離れる寂しさはあったが、自分で家を探し引っ越せるというワクワク感の方が勝っていた。

そして、京都駅側(都会方面)に2駅離れた場所に引っ越した。

社会人2年目に突入したタイミングで引っ越したのだが、河原を離れたこともあってか、またホームシックが再燃し始めた。

なので、これまたホームシックをかき消そうと、一人で色々なことを始めた。

ジムに通ったり毎日料理をしたりアニメや映画をとにかく見漁ったり各地の銭湯通いをしたりと、一人でも楽しめる健全な趣味を見つけようとした。

どれも楽しかったが、ホームシックが消えるまでには至らなかった。

僕が引っ越したところは、ぜんぜん都会ではなかったのだが、駅前周辺に昔ながらの居酒屋が10件ぐらいとスナックが10件ぐらい立ち並んでいた。
昔ながらすぎて一見さんはめちゃくちゃ入りにくいところばかりだったが、いざ入ってみると、安いし美味いし常連さんは暖かいしとにかく居心地が良かった。

僕は、ホームシックをかき消すにはやっぱり酒しかないなと思い、駅前周辺の居酒屋やスナックに頻繁に顔を出すようになった。

そういう場所に頻繁に行っていると、そこでのコミュニティが段々でき、どの店に行っても知り合いがいる感じで、ホームシックが自然と消えていった。

僕がよく通っていたとこで、死ぬほどハイボールが濃ゆいお店があった。
そこは老夫婦が営んでいる小さくて趣のある(平たく言うとボロい)お店で、そこにいつもいた常連さん(70過ぎのおっちゃん)からは今でもたまに連絡がくるぐらい仲が良かった。
僕はその人のことを仙人と呼び、その人は僕のことを慶ちゃんと呼んでいた。

4年前の僕と仙人(なんとなく一応顔を隠してみた)


あと、よく通っていたスナックがあり、そこは40歳の同級生ママ3人でまわしていたのだが、営業終わりにそのママ3人と僕との4人で飲みに行ったりするぐらい仲が良かった。
24歳のとき、営業終わりのスナックに呼ばれ、行ってみるとサプライズでケーキを出してくれたときは普通に泣きそうになった。


そのときの誕生日ケーキ


近所の飲み屋で知り合った人たちとのコミュニティに助けられ、ホームシックが徐々に消えていった。

あと、引っ越した家の目の前にパチンコ屋があり(歩いて20秒ぐらい)、暇なときなんとなく行ったりしていたら、パチスロにどっぷりハマってしまった。

もうパチスロしているときとパチスロを考えてるときが楽しすぎて、ホームシックどころではなくなった。
もう京都中のホールは大体行ったし、大阪や滋賀にまで遠征したりもしていた。
1ヶ月のうち28日も打ちに行ったことがあるくらい、とにかくパチスロというものにのめり込んだ。

そして、そんな酒とギャンブルと仕事に追われる毎日で1年が一瞬で過ぎ、社会人3年目に突入した。

そのときふと思った。


「、、俺このままで大丈夫か、、??」


酒とギャンブルが生き甲斐で、それを原動力にひたすら仕事を頑張る、それをこの先一生やっていくと考えるとなんかゾッとした。

この先の人生が全部見えたというかなんというか、この生活を繰り返していても僕の人生では何も残らないのに、これをずっとここでやっていく意味はあるのかと、急にこわくなった。

それなら、普通に地元に帰って気の合う昔からの仲間や家族とのんびり暮らしていた方が幸せなのではないか、そう考えるようになった。

僕は実家がだいすきだったので、実家に一人で暮らしているお母さんと一緒に住んであげたいという思いもあり、何が自分にとって幸せなのかを考えるようになった。


そして、3年目の途中で、会社を辞めて地元に帰ることを意識しだした。

よし、4年目に突入するタイミングで会社を辞めよう、勇気を出して上司に言おう、そう腹を括った。

そして、3年目が終わるとき、上司の方から呼び出された。


「あの、中村くんに次の新入社員のトレーナーを任せたいんだけど」

「あ、わかりました」

つい承諾の返事をしてしまった。

僕の会社にはトレーナー制度というものがあり、新入社員に対して一人の先輩が公私ともにみっちり面倒をみるというものがあった。

だが、それは業務的にも結構ハードな部分があり、だいたいベテランの先輩が任されることになっていた。
僕のときなんかは入社15年目の先輩がトレーナーだった。
なので、流石に僕がトレーナーをすることはないだろうと、たかを括っていたのだが、まさかの任命に予想外すぎて逆に二つ返事で承諾してしまったのだ。

いや荷が重すぎるってぇ、俺まだ4年目なんですけどぉ、異例すぎるってぇ〜〜。

そんなこんなで4年目も会社を辞めれず、1年間続行という形になった。

いやまあ正直、承諾したからといってそれを撤回して辞めることもできたし、4年目の途中でトレーナーを放棄して辞めることもできたけど、自分の性格上、一度受け入れたことは最後までやりきりたいという思いと責任感があったので、もう1年間続行することを決めた。

そして、酒とギャンブルが加速していく中、トレーナーをやりつつなんとか日々の業務をこなし半年が過ぎた頃、ある噂が僕の耳に入り込んできた。


「来年度から始まるバカでかい工事の担当が中村くんになるらしいよ」


おいおいおいおい、やばいってそれは〜。
大掛かりすぎるって〜〜5年目の若手が担当するレベルのやつじゃないってぇ〜〜。

若手なのにこんな大きい仕事を任されるという誇らしさはあったが、トレーナーのときと同様、このままじゃズルズルいってしまい、一生この会社を辞めれらないだろうなと思った。

なので、その噂が僕の耳に入ってきたタイミングで、上司からその仕事を任される前に、会社を辞めて地元に帰りたいということを勇気を出して上司に伝えた。

それが、4年目の11月半ばのことだった。

上司はどうにか会社にとどまってくれないかと、僕に寄り添った提案をいっぱいしてくれた。
福岡に転勤するという手配もしてくれようとしたが、実家からとても通える場所ではなかったので、僕は心を鬼にしてそれを拒否した。

そして、僕と上司との協議は2月にまで長引いた。

ここで、この協議の間(11月半ばから1月末頃まで)、僕の心境に大きな変化があった。

僕は、後先を考えず見切り発車で会社を辞めることを上司に伝えたのだが、一度、会社を辞めるという決意をすると、今から僕はなんでもできるんだなと、何をやってもいいんだなと、もう無敵じゃないかと、じゃあすきなことをしないと損じゃないかと、そう思うようになっていった。

僕は、小さい頃から漫才がだいすきで、小学校中学校と将来の夢は芸人になるとみんなに息巻いていた。

高校に入って現実的なことを考え、その夢はもう諦めていたが、24歳になってまたその夢が沸々と再燃してきたのである。

地元に帰るから辞めたいと上司には言っていたが、協議の途中でたまたまそういう考えになってしまい、口が裂けても上司には東京に行って芸人になりますとは言えなかった。
まあ言ったところで上司や職場の人は応援してくれたのだろうけど、そのときは言う勇気が出なかった。
だってお母さんといっしょに住みたいですって言って辞めるって言ったんやもん、途中でやっぱ芸人になりますとは言えんよ、ほんとに。

でも、僕はこいつとだったら芸人をやりたいという人(高校の同級生)がいたので、そいつから断られたらきっぱり地元へ帰ろうと、そう思っていた。

その同級生を呼び出しそのことを伝えると、いっしょにやってくれるということになったので、もうこれは芸人になるしかないなと、やりたいことをやり抜くしかないなと、そう思って東京に行くことを決意した。

そういう経緯で吉本の門を叩き、芸人の活動をしだしてもう4年が経った。

4年といえば、僕が社会人を経験した年月とほぼ同じになる。

芸人になってから今までで一番辛く苦しいことや悔しいこともあったが、これだけは言えることがある。

ほんとに今が一番楽しい。

何より人生をちゃんと生きている気がする。

社会人のときより大変で忙しいのにお金は全くないが、今を生きているというか、将来に対する虚無感みたいなのが全くなくなった。

自分のすきなことをやる素晴らしさを知ったのだ。

それに加え、芸人の世界というのは本当に優しい世界で、僕はこの世界が居心地が良くて、僕はそういう世界を追い求めて今まで生きていたのかもしれない。

今、人生に迷っている人へ。

とことんすきなことをやりなさい。


みんな、今を生きろ。


大丈夫、今を生きた結果、何があったとしても、今が一番楽しいから。

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