レコード神社「鈴木茂ベスト」鈴木茂&ハックルバック

リズムと日本語

外国産のリズムに日本語がどう絡むのか。
また、当時のミュージシャンはどう絡ませようとしていたのか?
このレコードを聞くと
リズムと日本語の関係を考えざるにはいられない
溢れんばかりの魅力に包まれたアルバムです。

ご存じのとおり
言葉が古くなることはよくあることで
使われなくなってしまった言葉は存在する。
ただ、リズムはどうだろうか?
リズムが古くなることは、、、
やっぱりありますね。

ただ、音楽の場合は
リズムと日本語の絡め方の度合によって
流行り廃りが発生するのではと
フォーエバーヤングたかぎは考える次第であります。

漁港の肉子ちゃんをみていると
「イメージの詩」が流れてきた。
思わず涙。言葉が入ってくるし、
もっともっと音楽に言葉を求めている状態になってしまった。
これいかに。
フォークソング、その後のニューミュージックの発展の背景には
音楽に<時代の言葉と物語>を求める
民衆の心が深くかかわっているんでしょうね。

<絡め方の尺度、あるいは言葉の発生する場所>
その歌はどこで生まれたのか?
・労働歌
・祈りのうた
・ダンスミュージック
本来の音楽の機能を考えれば発生場所こそ
存在理由になりにけり。


バッテン!
令和5年の日本ではそこまで切羽詰まった状況で
歌が生まれているとう状況ではないのでは。という
少問題発生!

ここでいう切羽詰まったと表現する中では
葬式の木魚とか祈りの言葉などの
音楽(人間)の原初性に接近しているものです。
もちろん年金とか税金とか、値上げで大変は大変ですけどね。
ただ、なんとなくみんなが感じている
名前のついていない気分のようなもの
って歌になりやすいんだとは思います。
フィッシュマンズの曲には、<日常のなんとなく>に
名前をつけるのがうまいですね。
時代を知らず知らすに内包してしまうのかもしれませんね。

現在、音楽に問われているのがデザインセンスなのではと!
思う次第でありまして、
言葉を含めて音楽をどう響かすのか?
なかなか難しい問題なんだと思います。
ここでちょっと坂本慎太郎さんの歌でも聞くと
何を伝えたいのかが伝わるかな〜と思いますが
どうでしょう?
言葉+リズム 優先型な気がしませんか?
それでいてミニマム
これでもかってぐらいに削ぎ落とした音響空間に広がる世界観
そこから独特の物語が立ち上がってくるのが
た・ま・ら・な・い

対して鈴木茂さんの砂の女
言葉+リズム この二つはもちろん感じますよね
ここに物語が加わっている事に気がつくでしょう。
よ〜く聞くっと物語を追えるんですけど
聞き流しても気にならないサウンドとしての言葉のフィット感ありますね
聞き流しても困らず、サウンドとしても聞ける、よくよく聞くと物語性もある
そんな都合のいい!
これ要するに距離感だと思うんですけどね
フォークミュージックの場合
対象に対して個人が歌うことで最大の効力を発揮するわけでして
対象(政治、思想、生き方、スタイル )が大きければ大きいほど
<自分の場所から歌う>意味が強くなる。
それはそれでいいんですけど。

聞き流せて気分がいいってのはリズムに乗ってるからでありまして
今生きている人にどうやってリズムに乗せるか?
これもまたポップミュージックのB面なのではと気がつき
正月、一人で悶々。

音楽をデザインすること

このことに意識的だったのが
<ティンパンアレイ(キャラメルママ)>でしょう。
雪村いずみ&キャラメルママの動画を見ると
あの時代の中で掘り当てた感が出てます。
1970年代に銀座カンカン娘ですよ
日本人ならではのファンクネス&グルーブ
を感じるのは私だけではないでしょう。

戦後の日本人のルーツミュージックってなんなんでしょうね?
盆踊りの下地があってこそのかっこよさなんですよね。
音楽それ自体のミクスチャー性と
日本人の職人文化の結晶
なんて書くと
白々しくなっっちゃうな〜

ブギウギは外国産のリズムだけど
日本の流行歌を再構築してます。
再構築自体がデザインセンスを問われる作業ですよね。
海外ミュージシャンが自国のルーツミュージックに目を向けて
拝見には、
<自分のリズムを再構築と再確認>の必要があったんじゃなかろうか。
リズムの取捨選択がプロデユースの生命線
そんなことを考えながら
鈴木茂さんを聞くと
やっぱりいいもんですよ。

演奏できる人の歌って 距離感が取れているから好きなのかな。



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