谷間と右脳人間②

谷間を見る者は右脳人間だという説に関して、
納得のいかなかったK君と再度論議になった。
理知的な私は、昨日のような事態を避けるべく、まずこう提案した。

「まずは『谷間』という単語を言い換えないか。」

「と言いますと?」

「鈍い男だな。休憩室とは言え、周りに聞かれた時に困るだろう。
 昨日のように。」

「あ、なるほど。では『半ボイン』ではどうでしょう。」

「半ボイン!?しょ、正気か君は!
 聞かれて困るから言い換えるのに、ボイン!?ボインなの!?」

「先輩、声が大きいですよ…冗談です。」

「そ、そうか。なら何にする。」

私は理知的だが、なにぶん左脳人間なので、発想力に欠ける。
こういった場面では、愚かだが発想の豊かなK君に頼らざるを得ない。

「では『グランドキャニオン』ではどうですかね。」

「ではそれにしよう。
 君は結局、グランドキャニオンを見るわけだな。」

「ええ、グランドキャニオンは見ます。綺麗ですから。
 でもそれと右脳人間は関係ないですよ。」

「まだ言うのか。グランドキャニオンを見るということは、
 物事を理屈で考えていない証拠だ。」

「なぜです?」

「グランドキャニオンを見たとしても、揉むことは出来ないだろう。」

「揉みますよ。」

「揉むのっ!?」

「声が大きいですよ。でもあれは揉むでしょう。」

「ぐ、グランドキャニオンは、お父ちゃんの為にあるんやないでぇ~。」

「何言ってるんです?」

「いや、すまない。取り乱してしまった。
 私が言っているのは、電車の中で揉むかということだ。」

「あー。電車でグランドキャニオンは揉めませんね。」

「そうだろう。それどころか、全景すら拝めないはずだ。
 揉めない、全景すら見えないものを見る意味があるのか。」

「綺麗なものは見たい。それでいいんじゃないですか?
 僕は、『綺麗なものを見る』という論理的根拠に基づいて見てるんです。
 それは左脳で処理していると言えるんじゃないでしょうか。」

仕事でもこんなに議論が白熱したことは無い。

「いくら綺麗でも、帰宅する頃には忘れてしまうじゃないか。」

「帰宅してから使おうという考えがそもそも間違ってませんか?」

「う…いや、グランドキャニオンは使わないと勿体無いだろう。
 見るだけでは生殺しだ。」

「グランドキャニオンは見ることにこそ意味があるんですよ。
 あの見事な溝とやわらかな曲線。」

「わ、私は見るだけでは嫌なんだっ!」

「それは単に先輩の趣味の問題でしょう。
 言動が既に合理的じゃないし、左脳人間とは思えませんよ。」

「左脳人間が必ずしも合理的とは限らないのだ。」

「それはこの議論の根本を否定してませんか?」

「だいたい君は何か色々と足りないぞ。」

「先輩の知性ですか?」

「それも足りないが、君の私に対する敬いが足りないんだ!」

「グランドキャニオンを必ず揉みたいなんていう人を敬えません。」

「必ず揉みたいとは言っていない。
 グランドキャニオンを使わずに眺める意味は無いと言っているんだ。」

「ですからそれは先輩の趣味であって、
 僕はグランドキャニオンをただ眺めるのも大歓迎ですよ。」

「だいたいグランドキャニオンを見えたままにしておく女性も駄目だ。
 もっと惜しむべきだ。」

「いいじゃないですか。サービス精神ですよ。」

「どうせ見せるなら揉んでも文句を言わないで欲しい。」

「…ほんとに左脳人間なんですか?」

「とにかくグランドキャニオンは見るだけでは駄目なんだ。
 チラリズムだか何だか知らないが、子供の発想だ。
 大人にとっては揉んでこそのグランドキャニオンなんだ!」

そこまで言った時、後ろから若い女性社員に声をかけられた。

「グランドキャニオンの話ですか~?
 あれは一度は見ておかないと嘘ですよね!」

我々は顔を見合わせてから、笑顔で答えた。

「で…ですよね~。」


私は常に合理的に物事を処理する、左脳人間である。



※この記事は2007年までに公開した内容の修正・再掲載です。

  

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