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謎解き『ナイン』(1)(井上ひさし) ――横溢する感動と共感――

〈目次〉
1 はじめに
2 『ナイン』のあらすじ
3 「英夫」はどんな人間か
4 『ナイン』には、なぜ8人しか登場しないのか
5 終わりに

1 はじめに
 作家の井上ひさしに『ナイン』という短編小説があります。
 少年野球チームのエースだった英夫を中心に、仲間たちのその後と彼らの「絆」を描いた作品です。
 この小説に対する巷の評価はかなり高いようです。
 ネットのレビューをいくつか紹介します。
 「チームだから分かち合える喜びや悔しさ。彼らにしかわかり得ない彼らだけの醍醐味。年月を経ても絆の強さは生き続けます。」
 「大人たちの繋がりも密接だが、その大人たちにも理解できない絆を子どもたちは持っていた。そのたくましさが心に残った。」
 「とても共感できる内容です。僕も少年野球でピッチャーしてました。当時は水を飲んではいけない時代でした。日陰の優しさだけでも人間形成に大きく影響いたします。読めば分かります。」
 他のレビューも概ねこのような調子でした。
 印象ですが、9割以上の評価が肯定的で、感動や共感の意を表す人も多かったです。
 少しは批判的な意見があるのではないかと探してみたのですが、ほとんど見当たりませんでした。
 わずかに、Yahoo!知恵袋の中に、「私が単純に冷たい人間なだけでしょうか、皆さんは英夫や正太郎の気持ちがわかりますか。私にはよくわかりません」という質問があったぐらいです。
 その質問にも、『ナイン』を擁護するようなアンサーが付けられていましたが。
 どうも多くの人は、『ナイン』に描かれた「仲間内の絆」が大好きであり、「特別な経験は、それを経験しなかった人には決して理解できない」という主張に共感するようです。
 『ナイン』は高校の国語教科書の定番教材の一つであり、教師と思しき人たちのブログを読むと、その授業にかける熱意が伝わってきました。
 日本全国の多くの高校生が『ナイン』を読み、「共感」させられているのでしょう。
 ところで、『ナイン』には一つ大きな「謎」があります。
 それは、少年野球チーム9人の絆が描かれているはずなのに、どういうわけか中堅手(センター)であった人物が抜け落ちているという点です。
 多くの人はその理由を、「作者が単に書き忘れただけ」と解釈していました。
 しかし、作家であれば創作ノートぐらい作っているでしょうから、書き忘れたというのは考えにくいです。
 しかも、「絆」をテーマとした小説においてメンバーの一人を書き落とすというのは、仮にミスだとしても致命的ではないでしょうか?
 今回は、「『ナイン』に中堅手がいない」という「謎」を解明しつつ、この作品のテーマについて迫ってみたいと思います。

2 『ナイン』のあらすじ
 「わたし」は、ある日、四ツ谷駅前の新道商店街にある中村畳店を訪れました。
 東京五輪の頃、「わたし」は店の二階に下宿していました。
 その二階には今、中村さんの長男英夫夫婦が住んでいます。
 中村さんと「わたし」の話題は自然と新道少年野球団のことになりました。
 当時、新道少年野球団は、チーム9人しかいなかったのに、新宿区の少年野球大会で準優勝しました。
 投手の英夫は真夏のかんかん照りの中、準決勝9回、決勝12回を一人で投げ通したのです。
 中村さんは今でも、息子やチームよくやったと思っています。
 試合後、新道商店街でパレードが行われました。
 監督は試合中に倒れてしまったので、パレードも主将であった洗濯屋の正太郎と英夫を先頭に、9人だけで行いました。
 泣くのを我慢しながら進んでいましたが、当時新道に住んでいた歌舞伎役者の大和屋にねぎらわれると、9人は一斉に泣き出しました。
 中村さんは「よほど悔しかったのさ」と言います。
 その9人も、今ではばらばらになりました。
 1塁手だった洋品屋の明彦は、千葉から丸の内の会社に通っています。
 2塁手、総菜屋の洋一は新宿のホテルのコック、3塁手、ガラス店の忠はコンピュータ技師、遊撃手、文房具店の光二は神奈川の中学校教師、左翼手、豆腐屋の常雄は埼玉の自動車学校の経営者であり、今でも地元に残るのは右翼手だった魚屋の誠と英夫だけです。
 まだ30歳ほどの常雄が経営者になったのは、彼がタクシー運転手をしていた時、そこの社長の娘に見染められたからだといいます。
 少年野球団の4番打者で、捕手、主将だった正太郎の話が出ないのを「わたし」が訝ると、中村さんはしぶりながらも彼の話をしました。
 なお、この時、中堅手だった選手のことが二人の話題に上らず、それが『ナイン』の「謎」になっています。
 さて、中村さんは、英夫が正太郎のために畳85万円分を騙し取られたというのです。
 二年前の冬に正太郎が突然やって来て、勤務先の不動産会社でよい畳が急に必要になったから、明朝までに五軒分の畳を準備してほしいと泣きつきました。
 詐欺師だという噂の立つ正太郎の話だから中村さんは怪しみますが、英夫に「正ちゃんを信じてほしい」と頼まれ、同業者を回り歩いて畳をかき集めました。
 翌朝、畳を正太郎に引き渡しましたが、彼はそれっきり姿を消してしまいます。
 中村さんは警察に届けようとしますが、英夫が「それなら僕が家を出て行く」と脅すので、届け出ませんでした。
 「あの時、正太郎を警察に渡しておけば、常雄も苦労しなかっただろう」と中村さんは悔やみます。
 去年の春、正太郎は常雄の会社に現れ、やはり彼に泣きついて雇ってもらいました。
 ところがその夏、正太郎は会社の金400万余りを持ち出し、懇ろになっていた常雄の奥さんと逃亡してしまいました。
 常雄は自殺未遂事件を起こし、まもなく奥さんもぼろぼろになって戻ってきます。
 奥さんはその後、生まれ変わって常雄に尽くすようになりました。
 この時、常雄も正太郎をかばって、警察に訴えなかったといいます。
 中村さんは、正太郎が悪くなった理由はわからないとしつつも、両親はしょっちゅう夫婦喧嘩をし、その度に正太郎は家出していたと語りました。
そこへ奥から英夫が現れ、畳の仕上がりの確認を父に求めました。
 中村さんは、「お前がいいというなら大丈夫だ」と言いつつも、奥へ行きました。
 「わたし」が英夫に「お父さんは英夫君のことを高く評価していますね」と話すと、英夫は「だとしたら正ちゃんのお陰だ」と答えました。
 英夫は言います、「自分が本気で仕事をするようになったのは、正太郎に騙されてからだ。だから、常雄にしても、正太郎を憎みながら、感謝しているところもあるだろう。常雄の奥さんは高慢な女だったが、正太郎との一件の後、別人のようになった。正太郎は悪のように見えるが、今でも僕らのキャプテンであり、結局は僕らのためになることをして歩いている」と。
 「わたし」が、「うーん、わかるような気がする」と控えめに賛意を表すと、英夫はきっぱりと「おじさんや、木陰で試合を見ていただけの父にはわからない」と言い切りました。
 英夫は続けます、「試合があった日、二試合とも新道少年野球団のベンチは三塁側にあり、ずっと日に焼かれていた。決勝戦の途中、疲れ切った英夫に、正太郎の命令でナインが前に立って日陰を作ってくれた。ふらついた常雄も日陰に入れてもらえた。ナインが西日を遮ってくれたから、英夫も完投できた。パレードの時に泣いたのも、(負けて悔しくて泣いたのではなく)うれしかったからだ。ナインにはできないことは何もない、その気持ちが今も残っている。だから(今でもナインの絆は強いし、主将であった正太郎への信頼も揺るがない)」と。
 中村畳店を出た「わたし」は、試合のあった外濠公園野球場に向かいました。
 金網越しに野球場を見てから振り返って西を見ると、大きなビルが立ち並び、グラウンドにはもう西日が射さなくなっていることを知りました。

 さて、今回は以上にしましょう。
 次回は、英夫という人間についてお話しします。
 『ナイン』が人気なのも、英夫の「魅力」によりますが、彼は本当にいい人間なのでしょうか。
 あらためて考えてみたいと思います。


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