見出し画像

謎解き『バックストローク』(小川洋子)① -十五の謎-

〈目次〉
1 はじめに
2 十五の謎

1 はじめに
 作家小川洋子さんの『バックストローク』は、高校現代文の教科書にも採録される短編小説です。
 幼児の頃からほぼ毎日スイミングスクールに通い、背泳ぎの中学新記録まで作った弟が、十五歳の誕生日の翌日、左腕を挙げたきりになり水泳をやめてしまうという話を、姉である「わたし」の視点から描いた作品です。
 自分だけでなく家族すべてを巻き込んで過剰に弟を応援する母と、家族に全く関心を持たないアル中の父、それに唯一の理解者であるかに見える「わたし」に囲まれ、弟はそのほかの全てを犠牲にしつつ泳ぎます。
 水泳がない時のほとんどを、弟は部屋の隅で過ごします。
 自我を持つことのないまま青春を「浪費」し、そのために人生を「崩壊」させてしまったかのような弟の物語は、高校時代に一読するにふさわしい小説です。

 しかし、『バックストローク』は奇妙な作品でもあります。
 左腕が挙がったままになるということ自体、現実にはあり得ないですし、しかもその左腕は最後には付け根から抜け落ちてしまいます。
 ですが、このあり得ない物語は、これまた奇妙なことに私たちの心に深い印象を与えます。
 果たしてこの奇妙な感慨の正体は何でしょうか。

2 十五の謎
 心に残るシーンがいくつもありながらも、同時に奇妙なところ、どう解釈すればいいのか戸惑う場面も多いのがこの作品の特徴でもあります。
 その謎めいた点を列挙します。

弟の左腕はなぜ挙がったままになったのか。
 まずは弟の左腕が挙がったまま固定されてしまった点です。
 果たして、これは弟自身が意志したことでしょうか。
 それとも弟の意志とは関わりなく、左腕は挙がったまま固定されてしまったのでしょうか。
 そしてそれは、意志的であろうがなかろうが、母の支配への拒否であるのでしょうか。
 これらは小説の根幹にかかわる問題です。

弟の左腕はなぜ突然抜け落ちたのか。
 次に奇妙でもあり、衝撃的でもあるのは、弟の左腕が突如として抜け落ちてしまったことです。
 「わたし」は自分の二十三歳の誕生日のプレゼントとして、弟にもう一度だけ泳ぐ姿を見せてほしいと頼みます。
 弟は姉の目の前で右腕だけで背泳ぎする姿を披露しますが、その時、何の前触れもなく左腕が抜け落ちてしまいます。
 弟は痛そうにもしないし、血も出ません。
 左腕がないまま、すばらしいフォームで「わたし」の前を横切ります。
 この時なぜ左腕が抜け落ちたのか、これもまた小説の主題に関わる大問題でしょう。

 『バックストローク』の話の中で奇妙な点は、左腕だけではありません。
 弟に関する事柄だけでも、他にいくつもの奇妙な点を挙げることができます。

弟はなぜ背泳ぎが専門であったのか。
 弟は3歳からスイミングスクールに通い始めました。
 スイミングの練習は水遊びや顔つけから始まり、次にバタ足やクロールに入り、その後平泳ぎや背泳ぎなどの泳法に進んでいくものです。
 小さい子の場合、特に専門種目を定めません。
 弟は小学校高学年で地元紙に名前が載る程の選手になっており、かなり早い段階で背泳ぎに特化したようですが、これは普通のことではありません。

弟は、泳いでいない時、なぜ〝隅〟にいるのか。
 「泳いでいない時、彼はたいてい部屋の隅の方にいた」と描写されてます。
 この「部屋の隅」というのは「飾り戸棚の陰や、食器乾燥機と冷蔵庫のすき間や、踊り場の突き当りにある納戸の中」のような場所ですから、尋常ではありません。
 現代における引きこもりの問題につながるものがあるように思われます。

弟はなぜいろいろなことに物知りであったのか。
 弟は、いつの間にそんな知識を得たのだろうとびっくりするようなことを、「わたし」に教えてくれます。
 物知りな子供は世の中に大勢いるので、弟が物知りであっても不思議ではありません。
 しかし、背泳ぎをする以外はいつも隅にいるような弟が、何のためにいろいろな「無用の知識」を身に着けたのでしょうか。

弟の前世の話は何を意味するのか。
 子供の空想として前世の話をすることは十分考えられます。
 ただ、それにしても「人食いコウモリに身体中を食いちぎられて死ぬ」というのは穏やかではありません。

弟は、なぜ「今度死んだら土の中に埋めず、骨にしてお姉ちゃんのお腹の中に入れてほしい」と言ったのか。
 「お姉ちゃんのお腹から生まれたい」というのならまだ理解できますが、「骨となってお姉ちゃんのお腹にい続けたい」というのですから、奇妙な願望です。

弟はレース後、いつも母に抱き締められたが、その時なぜどこか遠くを見つめていたのか。
 中学生はもちろん、小学生でも高学年になれば男の子の大半は、公衆の面前でなくても母親に抱き締められるのを嫌がるでしょう。
 母親と二人外を歩くのでさえ拒否する年頃です。
 弟が衆目の見る中、母に身体を任せ、されるがままになるのは、多くの男の子のあり方とは異なります。
 伝統的な「心の成長理論」からすれば、少し心配になるようなあり方です。
 ただ「わたし」の目に弟は、「どこか遠くを見つめ」、「背泳ぎなんかよりもっと深刻な問題について、思索を巡らせているかのよう」に見えました。
 弟は何を思っていたのでしょうか。

弟は十年も入院しているにも関わらず、病院からの手紙の内容はなぜあのように明るいのか。
 弟は十年も病院にいますが、何の病気を患ったのでしょうか。
 外科でしょうか、それとも精神科でしょうか。
 また、彼は「わたし」に一か月ごとに楽しげな内容の手紙を送ってきます。
 今まで弟が楽しげであったことは一度もないのに、なぜ病院であんなに楽しげなのでしょうか。

 さて、この小説の奇妙な点、謎めいた点は弟一人にとどまりません。
 他にも奇妙な点が数多くあります。

強制収容所の荒廃したプールを見たとき、「わたし」はなぜ急に気分が悪くなったのか。
 「わたし」が強制収容所の見学をしていた時、突然気分が悪くなるシーンがあります。
 囚人たちの悲惨な境遇に思いを馳せたから気分が悪くなったのでしょうか。
 「わたし」は、昔、自宅にあったプールを連想して気分が悪くなっています。
 でも、それはなぜなのでしょう。
 家にいた時、「わたし」は水泳に没頭させられる弟に同情していたし、弟の左腕が抜け落ちた時にもその左腕を拾い上げて温めてやりたいと思いましたが、それでも一度たりとも気分を悪くしていません。
 それが、なぜ弟もいない廃墟のプールを見た時だけ気分が悪くなったのでしょうか。

「わたし」が弟の左腕を拾い上げようとしても、手が届かなかったのはなぜか。
 「わたし」が最も弟の気持ちに寄り添ったかに見えるシーンです。
 であるなら、左腕は「わたし」に拾い上げられてもよかったはずでしょう。
 なのに、左腕はあたかも「わたし」を拒絶するかのような振舞を見せます。
 これはなぜなのでしょうか。

なぜ「わたし」は、小説の中で「現在」の話をする必要があったのか。
 小説の語りの問題です。
 小説は一貫して「わたし」の視点から語られますが、その時間は妙に複雑です。
 冒頭の語りは「現在」であり、次にその一年半ほど前のこととして、東欧旅行が語られます。
 その旅行時の回想のような形で、弟と家族の話が語られ、結末はまた東欧旅行の場面に戻ります。
 語りの時間は三層構造になっていますが、冒頭の「現在」の場面は不必要なのではないでしょうか。

弟が泳がなくなっても、自宅のプールはなぜあのように綺麗であり続けたのか。
 プールの管理には大変な手間がかります。
 水質を保ち続けるには水を入れ換えねばならないでしょうし、掃除も大変です。
 自宅の庭に作られたプールですから、生け垣からの落ち葉や埃、ゴミが入り込んだことでしょう。
 初めは母とお手伝いさんによって管理されていたのかもしれません。
 しかし、弟が水泳をやめてからはどうでしょう。
 ヒステリーを起こし、絶望し、鬱になった母がプールを管理したとは思えません。
 お手伝いさんは結婚し、家を立ち去りました。
 しかし、プールは依然としてきれいで、最後に弟が泳いだ時、プールにはゴミ一つ浮いていませんでした。
 では、誰がプールを管理し、掃除したのでしょうか。
 父でしょうか、「わたし」でしょうか、弟でしょうか。
 それとも別の誰かでしょうか。

お手伝いさんは結婚して家を離れる時、なぜ弟の手を撫で、涙を流したのか。
 家族の誰も弟のために涙を流していません。
 なのに、端役に過ぎないお手伝いさんだけが弟のために涙を流しています。

通訳兼ガイドの青年と弟の共通点は何か。
 青年の中に弟と共通する点が何かあるでしょうか。
 青年は水泳の選手ではありませんし、隅に引きこもる男でもありません。
 でも、「わたし」は青年から弟を連想しています。

 さて、奇妙な点は他にいくつもありますが、もうこれくらいにしておきましょう。
 これから謎解きをしていく中で、おそらくそれらも解明されていくことでしょう。
 次回以降、『バックストローク』の謎解きに挑んでみようと思います。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?