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すてる、

すぐに引っ越す予定は無いが、本や服を断捨離している。

スペースを空けたい。持ち物を減らしたい。揃えているのが誇りだったのに、なんだか足枷のように感じる。

あんなに欲しがっていたのが嘘のようだし、お金の使い方が雑だったなと悔いながら苦笑する。勿論、その時の自分には必要だったのだ。出てくるものはすべて手に入れること。海を越えた旅。往復100km以上の日帰り遠征。

ふと「誰かに家宅整理されたら恥ずかしい」などと思う(逮捕とかじゃなく「不在」が理由でありたい笑)。大野くんみたいに個展を開く予定も無いし、鬱々とした中学時代の日記帳なんて後生大事にしている場合ではない。何度も段ボールの中に閉じ込めて各地へ運んできたのは、ひとえに過去の自分への愛着故ではあるが、もうそこからヒントを探す年齢でもないだろう。人生も断捨離だ。


遠い昔、恋人とも呼べない存在が私に教えた「素敵」という言葉。別離の際に悟った「素敵と思えなくなった時が棄て期」というモットーが皮肉にも私を生かしている。感想を「素敵」でまとめるのは逃げだと自戒を込めながら今日も言葉を紡ぐ(心から素敵と言いたい、そうとしか言えない時だってあるよ!)。

物質として残しておくべきもの、捨てられないものもあるけれど、惰性で持っているものは手放していきたい。


人間関係だってそうだ。

其々のライフスタイルもあり、今まで通りに付き合っていくのは難しいと感じることが年々増えていく。それでもたまに会い、話すのも聞くのも心のままに振る舞える友人たちの存在は、幸福の象徴だと感謝する。違いを認めながら互いを尊重し合えるから、取り巻く諸々が変わっても根本は変わらずに居られる。それは会う頻度には関わらない。

逆にどんなに長い付き合いでも、一度生じた小さな歪みは埋まることなく拡がり続けるので、嫌いにならない為に距離を置いたりする(ひとたび受け入れられない時点で道は別れていく)。すべてを失くさない為に、少しだけ捨てているのかもしれない。篩の中に残しておく為に。


20代を振り返れば、と総括するには半年猶予があるのだが、なにかになろうとした10代から「なれるものとなれないものがある」と知った10年。そして、欲しがるにはまるで足りないと走って目指した未来は、文字通りに先が見えず途方に暮れる30歳の手前。一番欲しかったものはもう一生手に入らないし、叶えた夢の続きは見たいと願わなくなってしまったし、普通のことができない自分に結構絶望している。20代の頃は過程をおもしろがってもらえたし、自分でも楽しんでいたけれど、自分だけ人生の第一章がいつまでも続いている(そして新しい章を書く気もない、と信じ込ませているだけかもしれない)のは流石に笑える。

それでも私は今日も、息を吸っては吐いてを繰り返す。生きていきたい、と続けるほどの勇気は無いけれど、なれないものがあるだけで、なににもなれない訳ではないから。そんな風にまだ信じていたいから。捨てきれない気持ちを抱いて。



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