【哲学】『エセー』の「レーモン・スボンの弁護」について:我々は少しも優れた理性を持っていない

「それにしても人間とは、常軌を逸した存在というしかない。ダニ一匹作れないくせに神々を何ダースも作るのだから」

モンテーニュの「哲学的」主著であるところの『エセー』において、そのボリュームの多さから一際目を引くのが第二巻、第十二章の「レーモン・スボンの弁護」である。『エセー』全体をとおしてみれば、古今の思想からの引用に彩られており、なにがしかひとつの主義のもとに属させることは難しい。たとえば、『エセー』をピュロン的な懐疑主義の書物であると主張すれば、ただちにその書物のストア派的な部分を指摘する声があがることだろう。
 しかし「レーモン・スボンの弁護」にかぎれば、ピュロン的な懐疑主義の色が全編にわたって濃くあらわれているといって差し支えない。本稿では、そんな「レーモン・スボンの弁護」において繰り広げられる懐疑主義、すなわち理性への懐疑をとりあげ、その消息をたどる。理性への懐疑といえば仰々しく聞こえるけれども、われわれの認識・思弁の能力に限りがあることを思うのは、現代を俟つまでもなく珍しくはない。『エセー』が世に出た16世紀後半のフランスとは、しかしながら、科学革命が始まらんとする一方で国内をば宗教戦争に見舞われる、理性にとって勃興の時代であったことを忘れてはならない。そのような時代背景にあって、理性への徹底的な懐疑を遂行したモンテーニュはまさに異端であった。
 本稿では、まず、「レーモン・スボンの弁護」で展開される理性懐疑が、「特権性」と「確実性」の否定という大まか2つの方途によってなされることを、テキストを追いながら確認する。その方途は、当時において異端の思想であるのはもちろんのこと、現代のまなざしからしてみても、少々独特な論理と帰結を含んでいることを確認する。以上の取り組みによって、「レーモン・スボンの弁護」が時代をこえて意義をもつ思索であることが知らしめられるだろう。

 「レーモン・スボンの弁護」の企て

 ※以下、テキストは『エセー4』モンテーニュ、宮下志朗、白水社、2010年を用いる。

 「レーモン・スボンの弁護」と言うが、モンテーニュが捉えたスボンとは何者で、その何をどのように弁護しようと試みたのか。それについては少し入り組んだ構造をしている。
 モンテーニュが指摘するところのスボンの営みとは、他でもない、理性によって信仰を立証することである。これは当時に蔓延った信仰を軽んじる理性主義者、加えて理性による信仰への介入を許さない熱心な信仰者へと差し向けられた。モンテーニュは、「事実、スボンはじつに堅固にしてみごとな議論を展開しており、この主題をこれ以上巧みに扱うのは不可能であろうし、彼に匹敵する存在はいなかったとわたしは考える」(p12)と高く評価する。また、スボンと対立する二派のうち、熱心な信仰者に対してモンテーニュは、「こうした反論の背後には、それなりの熱烈な信仰心があるわけだから、それだけにいっそう寛仁の心と敬意とをこめて、このような主張をする人々を納得させなくてはならない」(p13)とはしつつも、その話題についてそれほど紙面を割いていない。「レーモン・スボンの弁護」を称しておこなわれるそのほとんどが、スボンと対立するもう一派、すなわち理性主義者への徹底した批判である。
 敵の敵は味方だから、スボンの敵である理性主義者を叩けばただちにスボンを擁護したことになるのだろうか。いや、そのような単純な話では収まらない。というのも、事実モンテーニュは理性を徹底的に疑い、理性による信仰証明の可能を否定することを通じて理性主義者をしりぞけた。これは明らかにスボンの意図したところではない。他方でモンテーニュは、理性によらずに信仰を擁護した。上述の彼の思想を引用によって示そうとすれば箇所の候補はいくらでもあるが、たとえば以下のような記述がある。

「これほどに高潔なる信仰の真理なるものが、ひとえに神と、その恩寵のおかげであることは、まことに理にかなったことだったのである...神だけが、そして信仰だけが、このことを教えてくれたのだと、正直に告白しようではないか。というのも、この教えは、自然から授かったものでも、われわれの理性から授かったものでもないのだから」(p208)

 まとめると、スボンの「理性による信仰の立証」のうち、「理性による」に目を向ければモンテーニュはそれを批判し、「信仰の立証」に目を向ければ彼はそれを弁護したといえる。見方を変えれば、「理性による信仰の立証」を掲げたスボンと、理性主義者との対立は、当時の時代背景を反映した「理性への信奉」が暗に前提されており、モンテーニュはその脱構築を成した、とも述べうる。以上のように、「レーモン・スボンの弁護」は明快な二項対立ではとらえきれない構造を含んでいるにせよ、モンテーニュが信仰の擁護のために理性への懐疑を遂行したことはまちがいない。

 理性懐疑の方途1:人間理性から特権を奪うこと

 理性への懐疑をおこなうにあたって、「レーモン・スボンの弁護」は、われわれ人間の「思い上がり」を詰る方途を進む。

「人間は、他の被造物よりも優れた、大いなる利点を有すると自負するけれど、その根拠をどこに打ち立てたというのか」(pp.28-29)

人間の思い上がりはその果てに、「唯一かのすばらしい理性をもつ人間のために神は世界を創造した」という境地に至るという。これを詰ることは様々な角度から可能である。そのうち、人間理性がその実無力であることを暴くのはのちに「方途2」として扱い、ここでは「理性とやらをもつのは人間だけである」という特権的意識に対する懐疑をみていく。
 モンテーニュは、人間から理性の特権性を奪うべく、人間に対して劣位とされてきた動物に関する考察を長々と繰り広げ、理性的思考を根拠とした人間(そしてその理性)の優位を否定しにかかる。その考察のふもとに記された一節に、モンテーニュの意図が鋭く現れているので引いておこう。

 思い上がりとは、人間が生まれつき持っている病気のようなものだ。あらゆる被造物のうちで、もっとも悲惨で、脆いだけではなく、もっとも傲慢なのが人間なのである。 ... むなしい創造によって、神と肩を並べて、神のごとき身分を僭称し、他の有象無象の被造物とは別だとして、自分を切り離し、自分の同類かつ仲間のくせに、動物たちにはその持ち分を切り分けて与え、自分が適当だと思う性質や能力を分配している。けれども、いったいどのような知性を働かせて、動物たちの内部に隠れた動きを知るというのか? 動物たちと人間とを、どのように比較することで、彼らは愚鈍だと結論するというのか? (p33)

 われわれ人間は、動物と意思疎通することが究極的にはできないと考えている。飼い猫と心を通わせることができたように感じたとしても、どこかで人間はみずからの意思の都合よい鏡像として飼い猫を扱っていることを認めないわけにいかない。しかし、この意思疎通の不能は、動物の側に原因があるとただちに帰結することはできない。つまり、動物にわれわれのような理性、あるいはそれに準ずる思考能力がないから意思が通わせられないのだとして、人間の動物に対する優位を主張することは論拠を欠く。というのも、人間と動物が意思疎通できないという事実だけでは、両者の立場は等しいからである。動物のほうが、われわれが動物に対して思っているようなことを人間に対して思っていることを、果たしてわれわれに否定できるだろうか。

「彼らがわれわれを理解しないのと同じく、われわれも彼らを理解していないではないか」(p34)

 つまるところ、人間の動物に対する優位は、意思疎通の不能という事実にわれわれの「思い上がり」、すなわち「人間が特権的な被造物である」という解釈をあてがったうえで成り立つものにすぎない。そうだとすれば、その解釈を取り払い、代わりに「動物が人間よりも優れた被造物である」という解釈をあてがえば、動物の人間に対する優位を主張することが可能である。モンテーニュの長きにわたる叙述はそれを試みた。その一旦の結論と思われるのは次の箇所だろう。

「人間が、自分を他の動物より優れた存在だと考え、動物たちの状態や社会とは一線を画そうとするのは、本当の理性的思考によるのではなく、愚かなプライドや強情さによるのである」(p89)

 さて、ここでは人間の動物に対する捉え方をとおして、われわれの「思い上がり」が他者理解一般に応用されうる困難であることが浮かびあがってきた。モンテーニュはこのことを繰り返し記述している。

「人間とはかく、他人の発言を、自分の先入見に都合のいいように曲げて解釈したがる」(p26)
「われわれは、自分にとって異常に思われることや、理解できないことを、非難してかかる。こうしたことは、動物を判断する場合にも起こる」(p58)

 この「思い上がり」は他者論をとりあげれば必ずと言っていいほど取り沙汰される論点である。また、「先入見」という言葉遣いは、(僕の関心領域にむりやりひきつけるようだが)のちのディルタイやハイデガー、ガダマー等の所謂解釈学的領域に接続する可能性を思わせる。ハイデガーならば「先行理解」は現存在の理解構造にとって不可欠だというし、ガダマーは「先入見」からわれわれが逃れられないことを踏まえたうえで解釈の可能性を模索した。つまり彼らの解釈学的思考は、「自分の先入見に都合のいいように曲げて解釈したがる」人間の性向を決して一概にマイナスに捉えてはいない。

 話を戻し、モンテーニュはというと、ピュロン主義的な「身を任せる」道を選んだ。

 それは人間をはだかで空しいもの、おのれの生来の弱さを認め、なにか外の力を天から授かるにふさわしいもの、人間流の知恵を取り払って、その分、神の知恵を宿すに適した存在、自分の判断を一掃して、それだけ信仰に多くの席を譲ろうとする存在 ... これこそは、神さまの指のご意志とあらば、いかなる形を刻みつけてくださってもかまいませんからと待ちかまえている、白紙にほかならない。われわれは、神に身を委ねてお任せし、わが身を捨てれば捨てるほど、それだけ価値があるのだ。(p123)

 他者理解を仮に「自分と相手の意見の融和」と定義しおくならば、そのためには自らの意見をゆるめるか、相手にそれを求めるか、あるいはその両方が必要となる。一般的な他者論や解釈学は、極端な主客構図を思わせることを避けるべく、「両方」の道を採る。しかし、モンテーニュにとっては、相手に融和を求めることには、必ずや人間理性の「思い上がり」がつきまとい、好ましい結果をもたらさない。であれば自ら「白紙」として構え、他者の決定、ここでいうと神に「身を委ねる」のが賢明である。この帰結は、あくまで「レーモン・スボンの弁護」が信仰の擁護を目論む文脈にあったことを差し引いても、われわれの目には異質で極端に映るだろう。

 理性懐疑の方途2:人間理性の不確実さを暴くこと

 人間だけが理性という能力をもつとするのは「思い上がり」である。モンテーニュは、人間理性からそのように特権性を奪うことで懐疑を遂行した。ところで、確認したように、人間の「思い上がり」の極致とは「唯一かのすばらしい理性をもつ人間のために神は世界を創造した」というものであった。いまやこのうち「唯一理性をもつ人間」の部分は疑わしくなったのだが、もしも、「理性のすばらしさ」までも裏づけを失ったとしたら、ますます理性懐疑は強力に働くことだろう。「レーモン・スボンの弁護」のうち、人間と動物の対比を中心に進む箇所を前半とするならば、後半では理性そのものの無力さについて、過去の哲学的思想を様々に引きながら述べられる。そして最終的に、そのような無力な理性によって信仰を立証しようとする試みをも喝破し、信仰の価値を保とうとする。

 理性の無力さについては、さまざな引用に彩られているゆえに方途を絞ることは容易でないものの、それでも論点は大まか2点にまとめられる。

 1点目は、われわれを学問へといざなう好奇心は、一見真理の探求を目指しているようで、その実人間に破滅しかもたらさないという指摘である。

「キリスト教とは、好奇心が、いかに人間本来の原初の悪であるかを特別に意識している。知識や学問を増そうとする気配りこそは、人類の破滅の始まりであって、人類はこの道から、永遠の劫罰へと墜落していった。思い上がりが破滅となり、堕落となったのだ」(p109)

 このことを確かめるために、「はたして人間には、探し求めているものを見つける力があるのか、何世紀も前から孜々としていそしんできた探求が、人間になにか新たな力や堅固な真理をもたらしたかどうかを検証する必要がありそうだ」(p113)と述べられる。ソクラテスやプラトンを始点とし、古今東西の哲学者の言動を引きながら、モンテーニュは人間の「孜々としていそしんできた探求」が挙句無用に陥っていることを再確認する。そして、そのように無力な理性によって、神の論証を試みることの愚かしさを断ずる。

「それにしても人間とは、常軌を逸した存在というしかない。ダニ一匹作れないくせに神々を何ダースも作るのだから」(p164)

 しかし、このような疑いを差しはさむ向きは、当時の理性勃興的な風潮からはほとんど生じなかった。
 2点目は、理性がいともたやすく「なびく」ことである。理性はしばしばまちがいを犯し、当初進んでいた探求の向きとは異なる方向へと、気づかぬうちに誘われることが得てしてある。しかし、それのみならず、ささいな誘因によって意見を翻してしまうことまである。

「さまざまな情念によって、どれほど異なる知性や理性が、どれほど相反する考えが、われわれに示されることか。不安定で、変わりやすく、その存在からして、混乱に支配されやすくて、ぎこちなく、もたもたした歩みしかできないようなものに、いかなる信頼を寄せることができようか」(p233)

 この「さまざまな情念」には、一般に理性に対して劣位におかれることの多い「感覚」さえも含まれるというのが、「レーモン・スボンの弁護」の終盤に展開される主張である。
 われわれ人間の「思い上がり」の核にあったのは、すでに述べたように、「自分の先入見に都合のいいように曲げて解釈したがる」性向である。これは「自分の先入見は自分にとって正しく、少なくとも不動である」という定式が暗に前提されている。自らの不動の意見に他人、果ては神までを引きこんで解釈する人間理性への懐疑は「方途1」ですでにみたが、そもそも自らの意見や先入見は不動どころか、いともたやすくなびいてしまうものだったのだ。

 理性には、かくして、あるアンビバレントな性質があることがわかる。一方では自らの確実性を疑わず、他者を自分の都合・意見にあわせて解釈し、他方では、自らの意見がささいな誘因、感覚によってさえも翻される、このような性質だ。こうして、理性の確実性はますます疑わしくなった。
 ここからモンテーニュは再び、自らは「白紙」となって「身を委ねる」道を選ぼうとする。どうせなびいてしまう自らを、神や他者の選択に任せてしまおうというわけである。

 このわたしは、気が変わりやすいことを自覚することで、期せずして、自分の考えにも、ある程度の落ちつきが生まれることとなって、以来、最初の自然な意見をほとんど変えたことがない。とにかく、新奇なことのなかに、どれほどの妥当性があろうとも、たやすく意見を変えたりしない――変えることで、失うものがあることを恐れるのだ。それから、自分には選ぶ能力がないのだから、他者の選択にしたがい、神さまが決めてくださった居場所を守っている。さもないと、ひっきりなしに転がるしかなくなってしまう。(p236)

 こうして、「唯一かのすばらしい理性をもつ人間のために神は世界を創造した」という人間の思い上がりは、人間理性の特権性、および確実性をともに懐疑のふるいにかけることによって喝破された。「思い上がり」の核心にある、神も含む他者を「自分の先入見に都合のいいように曲げて解釈したがる」性向は、その先入見すらもたやすくなびいてしまうことが判明し、いっそうたちの悪いものとして他者理解のさいに働くことがわかった。ただし、こうした理性の無力さから、理解できない他者や世界、自然にたいして、どのような態度をとるかについては未だ選択の余地がある。
 理解できない他者に直面したとき、われわれは理解しようとするか、理解できる(た)と思いこむか、理解を諦めるかの3つの方途があるだろう。ただし、理解しようと努めようとしても、知らず知らずのうちに「思い上がり」が発生し、思い込みに閉ざされてしまう恐れがあるのは、モンテーニュも述べていることだし、解釈学や他者論の主要な論点でもある。

 よって、以下のようにまとめられる。

 一方ではなおも理解するために努める人々がおり、他方で理解できない他者の前で自らを「白紙」に帰す人々もいる。理解できない他者との関係は、理解ではなく信仰によって結ばれるものである。これらの是非を判断するのは、それこそ人間理性にとっておこがましいことだが、少なくともいえるのは、これらの態度はいずれも、「理解できる(た)と思いこむ」われわれの根本的な傾向から逃れようという発端をもつということである。

 そう考えれば、ピュロン的な懐疑主義は、さほど時代遅れでもなければ神秘的でもない。現代においても取りうる選択肢のひとつとみるのがよいだろう。

ー終ー

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