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他者の絶対化からはじまる宗教学と宗教【概論】

本論でかんがえたいこと▼

・宗教学とはなにか。
・宗教と宗教学はなにがちがうのか。
・宗教学が他者学一般とことなる点はなにか。転じて、宗教学の定義が難しいのはなぜか。
・上をふまえて、やっぱり宗教とはなんなのか。

1、宗教学の領域画定について

 宗教学とは何か。宗教とは何がちがうのか。

 一般に学問の輪郭を定めるにあたりまずもって確認すべきことはその手法と対象である。しかし周知のとおり、宗教学のディシプリンは自然科学のように易々と定まらず、社会学系宗教理論・精神分析系理論といった理論の系列が存在する事実からも、その手法はいわば他学問の「つまみ食い」のごとき様相を呈していることがわかる。

 また、宗教学の扱う対象とはむろん宗教であるが、当の宗教の輪郭を画定する作業には覆いがたく困難が潜んでいる。宗教とは何かという果てなき問いが生まれるのだ。それゆえ、宗教学とは何かという問いに答えるためには、宗教とは何かという問いも併せて考察する必要があるのだが、しかしながら、宗教学がおこなってきたことといえば、あまねく宗教に共通の真理をとりだす理論の構築であり、これはすなわち宗教とは何かという問いに答えようとする営みに他ならない。

 つまり、一般に学問知とは、その対象の輪郭を定めることによってはじめて一箇の分野として認められるものであるのに、宗教学はその対象たる宗教の輪郭を定めようという未完の営為を進めていくなかで同時並行的に発展してきた。したがって、宗教領域のあいまいさを取りあつかう宗教学そのものの輪郭も、原理的にある程度ぼやけてしまうのである。宗教学とは何かという問いは、そのぼやけた輪郭からまたしても共通の真理をとりだすようなメタ的な試みだ。



 以上のような性質を有する宗教学への問いは、しかしながら手法・対象の他にも考慮すべき要素を含んでいる。それはいうなれば学知探求へむけての姿勢である。宗教学を行うにあたってまずもって求められるのは、見知らぬ他者の存在をそのまま受け入れる姿勢だ。

 つまり、こうである。未開の共同体を理解したいという欲求は、一口に「他者学」という学問探求に実を結んできた。それは宗教学のみならず、人類学、社会学、精神分析学など多様な形態をとり得る。しかし、これらのなかでも宗教学は、未開の共同体への理解を渇望しつつ、他方でその理解が成就しないこともどこかで認めつつ為されてきた。宗教でとり結ばれた宗教的共同体に、少なくとも学的姿勢によっては参入することなどできないことを、宗教学は了承する。いわばこの他者の絶対化――決して自己との一致へ至らないような、超越的なものもそうでないものも含む他者を、なおも扱おうとする点で、宗教学は他のいわゆる他者学から一線を画している。他者学のとる典型的姿勢は、他者にも通じるような自己流の理論を構築しつつ、それが真に他者に該当するものであるか検証するというものである。しかしこの検証の仕方は結局、他者のうちに自己意識の反照を見出すようなヘーゲル的作業であって、他者の絶対化など志向していない。方法でも対象でもなく、他者の絶対化を認める学的姿勢によって、宗教学は分野として成り立ち得るのではないか。


 本項で確認したことを整理する。

 まず宗教学とは何かという問いは、必然的に宗教とは何かという問いへと導かれ、宗教学はこの対象たる宗教とは何かを問うていくなかで、宗教の学的領域と並行して養われてきた。また、宗教学が他のいわゆる他者学と区別される点として、手法や対象の他に学的姿勢が挙げられる。それは宗教で結ばれた他者を学的探究によっては決して理解できないことを了承しつつ、他方で他者理解の欲求を結実させていくような営みであった。


 ――以上の整理にもとづき、私なりに宗教学的試みの一部を実践してみたいと思う。すなわち、宗教とは何かという問い――ありていに言えば、諸宗教に共通する真理や原理めいたものはないか、あくまで外部の立場から探求するのである。これは宗教であってかれは宗教でないという、われわれの素朴な実感になるべく寄り添うような判断材料はないだろうか。結論を先取りすれば、宗教とは他者の絶対化からはじまる営みだろうというのが私のさしあたっての洞察である。そして、宗教学が諸宗教を俯瞰するさいにとるのと類似した姿勢が、宗教そのもののなかにも見出せるのではないか。このことを次項で論じることにする。


2、宗教の領域画定について

 やっぱり、宗教とはなんなのか。

 まず確認しなければならないのは、われわれが宗教とは何かと問うとき、知らず知らずのうちに既存のある宗教のイメージを借りてしまいがちだということである。

 具体的にはキリスト教のイメージ、つまりイエスという超越的な一者を措定し、かれが世界を創造したという「神話」を礎としたものの見方を無意識のうちに採用してしまう。キリスト教を宗教観のスタンダードに据えることは、多神教は一神教に比べて特殊であるとか、仏教のように神を想定しない営みは宗教でないといった偏見の温床となる

 あるいはルターが「信仰によってのみ救われる」と言い表した内面重視の傾向、ならびに信仰と実践の分離という見方に定位すれば、当の分離が不明瞭なイスラーム教の扱いが難しくなるだろう。われわれの宗教に対する日常的な直感にも、いま述べたような偏見が潜んでいることを否定できないゆえに、これは宗教でかれは宗教でないという直感から真理を帰納的に導く手法も本来は避けるのが理想なのだが、他方で自己流の理論をまず立ててから宗教と呼ばれているものが真にそうであるか判定していく手法も宗教学として望ましくないことは、先の項で述べたとおりである。

 だから、われわれとしては日常的な直感に寄り添いつつ、既存の宗教のイメージをできる限り排するという仕方をとるしかないのだ。さしあたっては、先にとりあげた「超越的な一者による世界創造」「信仰の内面重視」「信仰と実践の分離」といった宗教へのイメージ、さらには「教義を有する」という語源上の謗りも回避したい。これら偏見による誤謬を避けるべく、「自己と他者」というきわめて日常的な次元から議論を始めることにしよう。


 他者のない宗教はあり得るだろうか。かのゴウタマ・シッダールタは、長期の瞑想の末に悟りを開き悦に入ったという。この瞑想とはまさに自己意識への没頭であり、そこに他者の介在する余地はない。ところで悟りを開くとは真理を見出すことである。真理は彼方にあるというプラトニズムには過度に傾倒しないとしても、悟りを開くにあたっての真理なるものは、いまの自己には存していないか、いまだ見出されていなかったものであるはずだ。つまり、ここでの真理とは自己に他なる者であるそれゆえ、悟りを開くとは未知なる他者を見出そうとする営みでもある。また、ゴウタマ・シッダールタの悟った真理はのちに人口に膾炙し、仏教という形で浸透するわけであるが、その過程にはいうまでもなく他者がくみしている。ここまでを鑑みると、宗教は他者なしにはあり得ないという言説は妥当であるように思える。しかし、考えて何らか他者なるものを見出すという試みは何も宗教に限ってなされるのではないし、他者を見出し、他者に彩られるというだけでは宗教固有の領域を切り出すことはできない。


 次に、ある現実の他人を愛するといった場面を考えてみよう。それは他者を志向しているから宗教であるといえるだろうか。あまりに根深く他人へ傾注している姿を、宗教じみていると形容することは自然かもしれないが、その物言いはいわゆる狂信者のイメージを借りているに過ぎない。つまり、それを宗教であると呼ぶこととは大きな隔たりがある。主にインターネットにおいて、特定の企業や人物を狂信するさまが「信者」と呼ばれたり、狂信する対象が「神」と名指されたりするが、それらもあくまで喩えの表現であるし、神のもとでの宗教という既存のイメージを端的に借用したうえでのものである。まさか当の企業や人物が本当に宗教を開いたとは誰も考えない。それが日常的な実感だろう。恋人や配偶者を愛することを「宗教である」と形容するには一抹の違和感が残る。しかしながら他方で、「神を宗教のもとで愛する」という物言いはじゅうぶん可能である。ゆえに、愛するという他者への関わり方に宗教なるものとそぐわない要素が含まれているのではなく、志向する他者それ自体のもつ性質に問題があるのだ。

 現実に存在する人物や共同体をとりまく熱狂や信仰は、どうも宗教じみている感が拭えない。それでは、現実を超越しているような、自己と他なる他者を志向することこそが宗教なのだろうか。これでははじめに棄却したはずのキリスト教のイメージと被るのではないか。現実に存在する事物への志向は宗教そのものではないと先に述べたが、しかし現存する像やイコンを神聖視すること、エリアーデならヒエロファニーと呼ぶような事態も考えられる。宗教領域の確定のためには、もう少し条件を絞らなければならない。


 そもそも、ここでいう「現実の超越」とはどういう意味だろうか。宗教を宗教たらしめる核とされた、エリアーデのいうヒエロファニーも、オットーのいうヌミノーゼも、「聖なるもの」という訳語をあてると無理がない。聖性という語の解釈にはさまざまな様式があるけれども、それらに共通してみてとることができるのは、現実からの超越性――決して形而上的含意があるとは限らない――自分の手では届かないどこかにあるという性質であるだろう。聖性が宿った現実の事物を通して聖性をそのもの帯びた何らか他者を信仰する、というのが先に述べた「現実に存在する事物への志向」の内実なのであり、聖性そのものは捉えられない、現実を超越しているといっても何も不都合は生じない。
 もっとも、ただ手の届かないだけではだめである。例えばいま私はブラジルの陸地に手が届かないが、当然ながらそれを宗教的対象とただちに捉えているわけではない。現実を超越した、手の届かないところの他者に、なおも手を届かせたいという志向(それが信仰と呼ばれる)があってはじめて、宗教であると判断するにふさわしくなる

 ところで、私は1の項において、宗教学の営みを「宗教で結ばれた他者を学的探究によっては決して理解できないことを了承しつつ、他方で他者理解の欲求を結実させていく」ものと定義した。いま、超越的な他者への志向という形で宗教の核をみてとろうとしたわけだが、これが宗教学の姿勢とよく重なることがわかるだろう。他者を自己と一致しないものとして絶対化しつつ、なおもそれを志向する。宗教学は宗教的なのだ

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