常識を捨て去ってはいけない

 最近「常識って意外と便利だよなあ」と思います。

 よく「常識なんか捨てろ」「常識なんてクソくらえ」なんて言う人がいますが、それってもったないと思うんですよね。常識って、ひとつの基準としてはそれなりに便利なツールじゃないでしょうか。

 村上春樹さんが、オウム真理教の現役信者や元信者の人にインタビューをし、その話をまとめた『約束された場所で』という作品があります。
 「信者・元信者の人の話を聞いて村上さんがどう考えたのか」という内容ではなく、「彼らの何を思ってオウム真理教に入信・信仰し、地下鉄サリン事件に対してどう考えているのか」ということを、できるだけそのまま文章に起こしてまとめようとした本です。
 その本に書かれた信者・元信者の人の話も面白かったのですが、それ以上に印象に残ったのは村上さんが後書きか前書きかで書いていた文章でした。
 手元に現物がないのでうろ覚えになるのすが、たしかこんな内容でした。(うろ覚えなので、文章は適当です)

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 彼らは学歴も高く頭のいい人たちなので、きちんと考えた上でオウム真理教を信じている。そんな彼らの話を聞いていると、何が正しくて何が間違っているのかわからなくなってくる。
 そんな時に自分の中でひとつの指針になったのが、『常識』だった。
 彼らの話を聞いているうちに「これは正しいんじゃないか」と思ったことも、常識に照らし合わせてみると、「ああ、やっぱりこの考えはちょっとおかしいんじゃないか」と気付くことができた。
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 これを読んで、なるほどなあ、と思いました。
 常識にはそんな使い方もあるのか、と。

 私も、頭でいろんなことを考えたりいろんな人の話を聞いたり読んだりしているうちに、いつの間にか考えが変な方向に入り込んでしまうことがあります。特にネットの世界だと極端な意見も多いので、そんなのばかりに触れていると、気がつかないうちに変にひっぱられてしまうことが多いのです。不思議と、常識的ではない考え方の方が魅力的に映ったりするものですから。
 そんな時にそれまで培ってきた常識を振り返ってみると、自分が今どの辺にいるのかが見えてきます。
 もちろん「常識と離れすぎていたら気をつけよう」なんて意味ではありません。別に常識外れであっても、なんら問題はないでしょう。ただ、一度冷静にある意味でも、それまでの常識を振り返り照らし合わせてみる作業というのは、やっておいた方がいいような気がします。基準点の確認、というイメージでしょうか。

 「常識とは18までに集めてきた偏見のコレクションに過ぎない」という言葉もあるように、常識を過信してそこに囚われてしまってダメなのは言うまでもありません。
 かといって、そこまで常識を毛嫌いする必要はないんじゃないでしょうか。
 「常識から外れているからダメ」というのと「常識的な考え方ではダメ」というのは、常識に囚われているという意味では一緒なのですから。

 多少文脈の違う話ですが、最近「常識って意外と便利だな」と特に感じるのは、ネット上でデマを読んだときですね。
 ひと通り読んで「いやいや、本当だったらとんでもないことだけど、さすがにそれはないだろう」と感じた記事がちょいちょいありますが、少し裏を取ってみるとすぐに大ウソであったり大きな誤りが含まれていたりすることがほとんどです。
 いや、ホント、さすがに「床の間」はないですよ。

(追記)
 いくら本棚を探しても『約束された場所で』が出てこないので本屋で立ち読みしてみたところ、けっこう記憶違いがありました。村上春樹さんは、「常識」ではなく「本能的なコモンセンス」と書いていました。確かにコモンセンスという言葉の方が、しっくりきます。
 文章のニュアンスも結構違っていましたね。お恥ずかしい限りです。当時の私はそのように読み取った、と言うことで勘弁してください。

 また、この話が出てくるのは前書きや後書きではなく、本の最後数十ページにわたって載っている村上春樹さんと心理学者の河合隼雄さんの対談でした。
 この対談は今あらためて読んでも新しい発見があり、非常に興味深い内容でした。おすすめです。

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