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「読み比べ」に何を求めるか

こんにちは。ひとりブックカフェです。

「ひとりブックカフェ」は架空のブックカフェであります。古民家をカフェっぽく模様替えし、大好きな本を配置し、写真を撮るなどして悦に浸っています。お店ではありません。しかし気持ちだけはお店をやってるつもりで、内装を色々試したり、あったら良いなと思うものを制作しています。

その様をお届けしよう、というのが、このnoteの基本的なコンテンツになります。


上の写真は本がすごいことになってるけど、これを書いている今は模様替え(と本の整理)が一段落したところで気温も暖かくなって参りました。

今日はちょっと片づけや写真撮影よりも読書の方を重視しようかな、ということで、サムネとタイトルでお察しの通り「バナナ魚日和・バナナフィッシュにうってつけの日」の読み比べをしてみました。贅沢ですな。


同じ小説。訳者が違う。

訳が違うと味わいも違うから、読み比べるという人は多いみたいだけれど、僕は本来、あまり読み比べに興味がありません。

作る人が違えばカレーの味は違うけど、カレーはカレーだよね、みたいな認識があります。食べることに関してはそんなにグルメじゃない方が幸せが多いような気がしますが、読書にしても、何にしても、そうかもしれません。

「バナナ魚日和・バナナフィッシュにうってつけの日」は短い小説なので読み比べてみようと思いました。

短いから良い。短いから。

でも例えばドストエフスキーを読み比べる人とかいるらしいですよね。すごい。本当にすごい。普通に読み切るだけでも大変なのに。

そんな、「読み比べ」に尻込みしがちな僕が素朴に知りたいのは、「人々は読み比べに何を求めているのだろう?」というところ。

仮説を立て、実感と重ね合わせて、「読み比べの意義」を我が物にしようと思います。

実際、今回、立て続けに二種の「バナナ~」を読み比べてみて、「それなりに気付くことがあるな」とは思いました。その点も後で書きます。

ではまず、読み比べに何を求めるか、仮説を立てていきます。

「読み比べ」に何を求めるか 予想

  1. ほんの些細な違い

  2. 読みやすさ

  3. ニュアンスの確認

  4. 時代の変化

少し考えるだけで「読み比べ」に期待できるものはこれだけありました。まあ誰でも思いつく範囲のことですね。

「ナインストーリーズ」は実にたくさんの訳が出ているらしいです。

五冊?六冊?くらいはあるのでしょうか。もっとかな?

それぞれが、こだわりを持ってだったり、言語センスをフルに使って訳に当たるわけですから、自ずと個性が出る。

読者は同じ素材(ベースとなる原文)が持つ核心的な物語要素と骨組みとを、少なからずフィルターのかかった日本語を読み比べて窺い知る、という作業をする。

もう少し分かりやすく言うと、「訳が違う」=「ゆらぎの許容がある部分(あそび?)」を知ることで、原文に固有の単語がいかに複層的なニュアンスを持っているのかを窺い知ることができる可能性がある、ということ。

「バナナ魚日和」と「バナナフィッシュにうってつけの日」というタイトルだけで、バナナ(一致)・魚(フィッシュ)・日和(うってつけの日)という風に揺れていて、この場合、例えば原文に含まれる「A Perfect Day for」「パーフェクトってどういうこと?具体的に。いやニュアンス的に」という問いを運んできている。



意味はないです。かっこよく撮れたので


訳がちょこちょこ違う、というだけで、こんな具合に原文に思いを馳せることができて楽しい。

でもまさか、ドストエフスキー作品の細かな単語の訳し方の違いをいちいち見比べて楽しんでいる人も少ないと思う。

だから単純に、後から出た訳の方が時代に合っていて読みやすいなーとか、そういう体験が楽しいんだろう。

昔の訳で分かりにくかったあのシーンが、新しい訳で読んだらよく分かった、というのは単純にスッキリして楽しいですよね。こういう経験はありましたそう言えば。でもちょっと分かりにくい昔の訳の方が好きだったりして、必ずしも新しければ良い、というわけでもないのがこの世の面白いところですね。

なにはともあれ、読みやすいってことは言語感覚が似ていて、リズムが合っていて、すらすら読めるとか、すらすら読めるからストーリーも頭に入り易くてとか、色々メリットがある。

加えて、出版社によっては訳注などが充実していたりして、そのおかげで物語の理解度がぐんと上がった、みたいな経験をすることもありますよね。

こう考えると、読み比べ、というより、読みなおしに意味がありそうな感じではありますけど、訳者が違う同じ作品を読むというのは、けっこう普通にメリットだらけっぽいです。

「バナナ魚日和」と「バナナフィッシュにうってつけの日」では何が違ったか

面白かったところを一点だけ。

物語の最終盤。シーモアがシビルと別れ、エレベーターに乗り込む。

居合わせたご婦人に「僕の足を見てますよね?」みたいな感じで絡むシーンがあって、誰しもここで「シーモアやべえ」って実感します。

それまでもシーモアの不安定さというものは語られるのですが、その背後にどれほどの「重さ」を抱えているのかは分からない。

しかしよりにもよってエレベーターという密室で、僕らは「シーモアの不安定さ」、「ミュリエルの両親が心配していたこと」を具体的に見る。

この場面が、「バナナ魚日和」と「バナナフィッシュにうってつけの日」でけっこう違ったな、と思いました。

「バナナ魚日和」のシーモアのセリフだけを抜き出してみます

「僕の足見てるね、あんた」
「僕の足見てるねと言ったんだよ」
「僕の足が見たけりゃそう言いたまえ」
「こそこそ盗み見たりするな、馬鹿野郎」
「僕の足は二本共当たりまえの足だぞ、他人にじろじろ見られるいわれなどあるか」
「五階を頼む」

J.D.サリンジャー著 沼澤洽治訳 『バナナ魚日和』講談社 28-29p 

続いて「バナナフィッシュにうってつけの日」

「あなた、ぼくの足を見てらっしゃいますね」
「あなた、ぼくの足を見てますねと言ったんです」
「僕の足が見たかったらそう言いたまえ」
「しかし、コソコソ盗み見するのはごめんだな」
「ぼくの足は二つともまともな足なんだ。他人(ひと)からじろじろ見られるいわれなんかあるもんか」
「五階を願います」

D.J.サリンジャー著 野崎孝訳 『ナインストーリーズ』 新潮文庫 30-31p

けっこう印象が違いますよね。

この後、この男は拳銃自殺をして物語は幕です。

突然の自殺、という幕引きを目の当たりにして僕ら読者は、虚を突かれたままでいられなくて「そういえばエレベーターで様子がおかしかった」「海で少女と話しているときも変なことを言っていた」「そもそも妻とその両親は彼のことを不安視してたじゃないか」、という具合に目の前で起きてしまった惨劇を肯定する素材を遡って探すことになります。きっと。たいていの場合は。

と、「効果」について話し出すと少し長くなりそうなのでやめますが、エレベーターのシーンでの訳の違いを比べると、言葉遣いが横柄な感じなのか、慇懃な感じなのか、という違いを発見できて、言うなればそれだけではありますが、読み味にはけっこうな変化を感じます。

こういう部分から考察を進めてみても良いのかもしれませんけれど、「バナナ~」に関して言えば

竹内康浩 朴舜起著 謎ときサリンジャー「自殺」したのは誰なのか

がわりと最近話題になったし面白いのでお勧めです。




文学って、小説って、少なからずこういう読み解かれ方をきっと待っていたりするかもな、と思わせてくれる本です。

ある程度グラス家に関する物語を読んでいた方が良いと思うけど、「バナナ~」だけは読んだことある、という方でも楽しめると思います。

こういうのを読むと「考察」したくなるけど、猿真似になってしまうので尻込みしてしまいます。

いやしかし、「読み比べ」もやってみたら楽しいし、「考察」も楽しいし、文芸ってほんと、良いものですよね。

というところで、今日の記事はこの辺で。

お読みいただきありがとうございました。

さようなら。


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