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厄介な、分をわきまえる習性

昨日、友人と話しながら、「分をわきまえる」ことを考えた。その集団に所属したいなら“分をわきまえない”と居づらくなってしまう。うーん。
先日磯田道史著「無私の日本人」を読んだとき、よく理解できたのは、長い年月をかけて、日本人の思考の習性がつくられてきたんだなということ。「分をわきまえる」ことを美徳とし、それを共通道徳として、社会全体に根付かせてきた。だから、どんな小さな場でも、集団の輪を乱す人は面倒臭く感じられがち。
それは複雑で緻密な社会構造のもと育まれてきたもので、簡単には緩まない。この国を形作るベース。でもそれが個人の幸福を超えて求められるとキツい…。分をわきまえるべきという暗黙の了解、今も変わらないんだなと感じます。
集団の中で、ときどき一人でも大きな声で主張する人がいる。それは鈍感なのではなく、あえて“空気を読まない”ことで、集団の枷に抵抗を試みている人も多いと思う…空気の流れを変えるために。
各自が「分をわきまえる」ために、それが原因で権力者の横暴がまかり通るのは、職場、地域、PTA、趣味の会合などなど集団の場ではよくある話です。多くの人がうんざりしていても、それを打破することはほんとに難しいものだなと思う。
誰が見ても圧倒的な権力者たとえば会社の社長と、そこの社員である自分との関係などは言うまでもなく、もっと身近で小さな集団でも、権力がある人=この集団の上部に位置する人は誰か、を咄嗟に図ろうとする習性。ほとんど無意識に近いレベルで。場の人間の力関係を敏感に察する。それは私の身についてしまっている、っていうか、多くの人がそうではないか。悪目立ちはしたくない、という自己防衛の意識。
周囲からの圧に逆らう大変さも考えて、多くの人がその集団を変革することより、うまくその集団に馴染むか抜けようする。自分の心を守るためにそれは悪いことじゃない…一人で主張するのはやはりリスクが大きいし…。もし集団に風穴をあけるなら…どんな小さな集団でも…ある程度知略を働かせないと、空回りしてしまう。
分をわきまえおとなしくしている、嫌ならうまくそこから逃げる、といっても、どこまで逃げても、またどこかで同じようなことがきっとあるわけで。
だったら、やっぱり自分がいる場所を居心地よくするしか方法はなくて。
分をわきまえず“空気読まない”のは、意外と気持ちよい。そうしたからって殺されるわけじゃなく…それほど臆病になることなかったんだ…こんなふうに、厄介な習性を打破する練習を、小さなことから積むことが、私たちには必要と思います。

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