きしけいすけ

「成長しない」経済と社会デザインの可能性について考えます。足柄の農業者(稲作・畑作・柑…

きしけいすけ

「成長しない」経済と社会デザインの可能性について考えます。足柄の農業者(稲作・畑作・柑橘・狩猟・やぎ)であり、農業スタートアップCEO。英オックスフォード大学MBA、東大法卒。会社はこちら→https://root-farm.com

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  • 「成長しない」経済と社会デザインの可能性について考える

    このマガジンは、20年前、高校二年時の化学の授業中に心に浮かんだ、「永続的な経済成長」というコンセプトへの疑問について、考えを深めることが目的です。 また、来る将来に大学で書くことを目標にしている正規の研究論文の準備としての位置づけでもあります。 表題につながる視点をシンプルに提示し、そこからの更なる議論の可能性を提示して終わる形を基本としてスタートします。 #幸せ #仕事 #お金 #経済成長 #農業 #経営 #価値 #ベーシックインカム #人口

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はじめに

私が神奈川県小田原市にある、のどかな高校に通っていた時のことです。二年生の化学の時間に、「保存の法則」についての話を聞いていました。 うつらうつらとしながらも、その「変化はあっても総体として減りも増えもしない」というこの世の中についての捉え方、というものに妙に納得がいきました。 それと同時に、では「なぜ経済のデザインが永続的に成長することを前提としているのか」という疑問が心に生じたことを20年ほどたった今でもはっきりと覚えています。 私は本質的には不安を感じやすく臆病な

    • 「自助共助公助」と「教育・弘道」

      立場のある人が自助を共助公助より先にもってくる場合、どうも批判が多い気がするのですが、しかし社会人としては当然自助が第一かなと思います。 一方で、私が小~中学校にいた頃にバブル崩壊だったからか、その頃から ①:政府の政策が悪いので ②:経済・景気が悪く ③:したがって、自分の稼ぎも悪い という大人の論調ばかり目にしてきた気がします。 しかし、③個人の稼ぎとは、本来自分の仕事の価値によって決まるものであって、①②のせいにするのは責任感なさすぎでしょう。 時代時代で、自分の仕

      • 医療費の国庫負担を削減するには?「新型コロナ」の影響を、違った見方から考える。

        新型コロナウイルスの影響で、病院の経営不安が取り沙汰されることがあります。 病院の経営不安とは、人々が病院に行かなくなり「病院の報酬が減る」ということを意味するのですが、そもそも日本の場合、医療の個人負担は3割(高齢者はもっと低いですね)で、その大部分が国庫負担(税金)です。 つまり、病院の経営不安とは、医療費の国庫負担軽減を意味します。 さて、医療費の国庫負担軽減とは、ここ半世紀ほど日本の国家的課題としてその必要性が唱えられてきました。その課題に対し、新型コロナウイル

        • ベーシックインカム制度は、憲法27条「勤労の義務」に反し違憲か。

          日本国憲法27条1項の内容はこちらです。 すべて国民は、勤労の権利を有し、義務を負ふ。 ベーシックインカム制度を、「国民が働かなくてもいいよ」という趣旨で法制度化すると、勤労を義務と定める憲法27条1項に反し違憲となる可能性があります。 これをどのように考えるか。 日本国憲法が時代に追い付いていないから改正すべきと考えるか、ベーシックインカム制度を導入してもなお勤労は義務とし、このままいくのか。 いずれにせよ、ベーシックインカム制度を導入するということは、ただ財源を

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        • 「成長しない」経済と社会デザインの可能性について考える
          23本

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          ベーシックインカムの経済デザインにおける位置づけをどうするか。(成長を前提とする今までの経済の教科書の延長線上でいいのか)

          私は、今までの成長を前提とした経済の教科書の延長線上に、ベーシックインカム制度を位置づけたくありません。 そうしないとベーシックインカム制度の意味するところが、これまでの先人のおかげでこんなにも経済成長したおかげで、必ずしも「無理に働かなくてもいい」、つまりは「経済成長はしてもしなくてもいい」という社会の実現、というところにたどり着かないからです。 このマガジンの本題に戻りますが、成長を前提としたこれまえの教科書を書き変えてこその、ベーシックインカム制度の実現としたいです

          ベーシックインカムの経済デザインにおける位置づけをどうするか。(成長を前提とする今までの経済の教科書の延長線上でいいのか)

          憲法25条『生存権』から、ベーシックインカムを考える。

          日本国憲法第25条は以下の通りです。 第1項 すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。 第2項 国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。 いわゆる『生存権』ですが、改めて見返すと気づきがあります。 国民は「権利を有」し、国は「努める」。 国は「その健康的で文化的な最低限度の生活を」保証するとまでは言ってないんですね。 ベーシックインカムが実現すれば、この点につき「保証する」ところまで国

          憲法25条『生存権』から、ベーシックインカムを考える。

          「お金」という「指標」について、問い直したいこと。

          これからこのテーマについては複数回、また多岐にわたって投稿していくことになると思います。 今回の視点は、 尺度の異なる社会の価値を 単一の数字指標で はかる ということについて。 そんなことは果たして可能なのか、また望ましいのか、ということについて問い直したいですね。 例えば経済上の価値は、「有形価値」と「無形価値」に分類したりします。前者はお米そのもの、後者はお米に付随する「ブランドイメージ」などでしょうか。 しかしこの「お米そのもの」と「ブランドイメージ」とい

          「お金」という「指標」について、問い直したいこと。

          サクッと真剣に「ベーシックインカム」の実現を検討します。

          日本国の一年間の会計支出は、約300兆円です。 (一般会計 約100兆円、特別会計 約200兆円) 日本国の総人口は約1億人。 国民一人に年間100万円配ったとして、一般会計分で賄うことができます。 夫婦+子供2人の4人世帯なら年間400万円のベーシックインカム収入です。これは働かなくても国から支給される額です。 「もっと」ほしい人は働けばよいでしょう。 企業も同様に、そのまま続けたいビジネスは続ければよいでしょう。 国や自治体によって提供される公共サービスの維持は、

          サクッと真剣に「ベーシックインカム」の実現を検討します。

          『循環型経済』に矛盾はないのか。

          経済成長が永続的になされるものを想定しているのであれば、『循環型経済』という言葉は矛盾を内包していると疑うべきではないでしょうか。 そもそも『循環』の意図するところは、その構成要素が総体として”増えたり減ったりすることなく”形や場所を変えることを指すととらえると 『循環しつつ、成長する』 これは矛盾であり幻想なのではないか。成長するということはどこかから何かを持ってきているということで、それはもはや循環ではないのではないか、そういった根本的な洞察をすべきかと思います。

          『循環型経済』に矛盾はないのか。

          「ばらまき」と「ベーシックインカム」

          この二つは結局、同じことでしょう。 制度化された「ばらまき」政策が、「ベーシックインカム」ということでいいのではないかと。 もう少し踏み込むと「ベーシックインカム」の印象として、「ばらまき」とは違って、最低生活を保障するレベルの支給まで実現するような期待感がありますね。 大変な社会経済情勢となった2020年現在、さまざまな「補償」≒「ばらまき」が多発しています。これがこれからも続いて、まとまりのなかった「ばらまき」が生活保障レベルに制度化されたら、実質的なベーシックイン

          「ばらまき」と「ベーシックインカム」

          必要なのはどっち?「少子化対策」と「人口抑制策」。

          私は小学生の時(1990年代)から、「なぜ少子化対策なのか?いや日本の狭い国土にこの人口は多すぎなんで、どう抑制するか考えるべき」と思ってきました。だって子供の目からしても、どこにいっても人間うじゃうじゃでしたから(笑) さらに、「保存の法則」を意識してからはそれは当たり前のことだと思うようになりました。人間の肉体や生活圏は限りある資源の一部なのですから。 おかしいのは、やはり永続的な成長を求める「経済デザイン」でしょう。人口が増えることが経済成長につながり、永続的に成長

          必要なのはどっち?「少子化対策」と「人口抑制策」。

          「成長を前提としない経済・社会デザイン」とは?共産主義&資本主義との対比からその歴史的革新性について少しだけ

          このマガジンの目的の通り、私は「成長を前提としない経済・社会デザイン」について検討・考察し、しかるべき場所で論文を書いてまとめることを一つの目標としています。 このアイデアが、どのように今までのものと異なるか、共産主義(社会主義)&資本主義との対比から考えてみます。結論だけ言うと、 永続的な経済成長を前提とする つまり 永続的な経済成長は可能であり なおかつ、すべきものである という点において、私の視点からすれば、 共産主義も資本主義も変わりはない ということになり

          「成長を前提としない経済・社会デザイン」とは?共産主義&資本主義との対比からその歴史的革新性について少しだけ

          一年分のお米の保証はベーシックインカムの役割を果たすか?【第三回】ベーシックインカムについて考える。

          「ベーシックインカム」をそのまま日本語にすると「基礎収入」です。収入を「お金」と考えると、制度としては現金での支給が前提となり、お米という現物支給やそれに類するものは、もう少し異なったネーミングが必要となりそうです。 さて、ここでは名前や言葉はさておき、ベーシックインカムの目的を「国民の生活の安定」をはかるものとして、現物としてのお米の保証はその目的に資するか、という点について私見を書きます。最初に結論を言うと、 大いに資する と考えています。 大人一人が一年間、一日

          一年分のお米の保証はベーシックインカムの役割を果たすか?【第三回】ベーシックインカムについて考える。

          なぜ、永続的・持続的な発展を目指すのか?「SDGs」は、そもそもの部分をきちんと考えるべきでしょう。

          永続的に成長を目指さなくてはならないとなると、どれだけ過去に成長を重ねても、その場で一息つくことが許されません。 そんな「成長」に意味があるのでしょうか? 私は常に「いま」、一息つきたいです。 子供や孫や次の世代が一息つくために、先人たちが「何か」を積み上げてきたのではないのでしょうか? 私は、積み上げてきてくれた何かに安心しながら生活することを許容する制度設計を考えたいと思ってきました。それがこのマガジンの主題である「成長しない前提の社会デザイン」ということです。

          なぜ、永続的・持続的な発展を目指すのか?「SDGs」は、そもそもの部分をきちんと考えるべきでしょう。

          「減税」は、ベーシックインカムに相当するか?【第二回】ベーシックインカムについて考える。

          例えば昨年、100万円の税金(社会保障費も含む)を払っていたとして、今年からその税金すべてが免除となったとします。 この人にとっては、今年100万円が手元に増えるので、ベーシックインカムが始まって100万円支給されることになりました!と同じような気がします。 違う点はあるでしょうか? まずは、税金によって提供されていた公的サービスの質がどうなるか、が気になります。 税金免除になった分、それらの公的サービスが停止され、結局免除された100万でそのサービスを享受することに

          「減税」は、ベーシックインカムに相当するか?【第二回】ベーシックインカムについて考える。

          「フードロス削減」は、環境・倫理の問題としてみるべきか?農業者の視点から。

          「もったいない精神」といったところから 「フードロス削減は、なんとなく環境や倫理的に善」 という感覚を肌で感じたりしますがちょっと違和感があります。 畑に野菜を捨てると、人間はその野菜を食べませんが、代わりに動物や小動物、そして最後は微生物などが食べて分解する、いわゆる「土に還る」というプロセスにつながります。 人が食べることを、他の生き物が食べることより「善」とする倫理的な理由は私には見つからないし、結局土に還るので環境的にもそこまで大きな問題ではなさそうです。

          「フードロス削減」は、環境・倫理の問題としてみるべきか?農業者の視点から。