見出し画像

1983年10月23日 日曜日

その日はなんとなく曇り空のひんやりした日だったように思う。
その日の午後は、自室で勉強机に向かい勉強をしているフリをしながら
傍らに置いてあるラジカセにイヤフォンを繋ぎ
全日本歌謡選抜を聴いていた。

午後四時の時報と共に夕方のニュースが流れた。
トップにどんなニュースが流れたかは記憶にはない。
ただ、幾つかのニュースが淡々と読み上げられる中
最後のニュースに意識が向いた。

その日、富士スピードウェイで開催されていた
富士グランドチャンピオンシリーズ(通称:富士GC)最終戦にて事故が発生
参戦していたレーシングドライバーの高橋徹選手と
事故に巻き込まれた観客の女性が死亡した・・・というニュース

事故の概要は以下の通り

その日は富士スピードウェイにて
富士GCシリーズ最終戦「富士マスターズ250キロレース」が行われていた。
レーススタート後、3周目に差し掛かろうとしていた最終コーナー
トップ争いをしていた2位走行中の高橋徹選手のマシンがスピン
スピンしたマシンは宙に舞い上がり
コクピット上面側からコースサイドのフェンスに直撃
この事故でドライブしていた高橋徹選手が死亡
また、フェンスに直撃したマシンの破片が四散し
立ち入り禁止区域で観戦していた観客の女性に直撃して即死
その他にも一人重傷、二人が軽傷するという痛ましい事故が発生した。

ボクはこのニュースをきっかけに
”高橋徹”というレーシングドライバーの名前を知った。

後日、この日のレースはテレビ放送され
その痛ましい事故の映像も見た。

ボクはこの頃
モータースポーツというモノに
非常に興味を持ち始めていて
日々、情報を収集してる時だった。

今のように、インターネットなどは無い時代
情報収集の手段は、毎月発刊される自動車専門雑誌
若しくは、月に二回発刊される「オートスポーツ」誌
さらには、毎週放送される
「ADVAN サウンドコックピット」というFMラジオプログラム。
後は、モータースポーツ好きの友人からの情報だけだった。

この頃から”オートスポーツ”誌は買い始めていたが
他の自動車専門誌は本屋での立ち読みに終始
貪るように情報と知識を詰め込んでいた。

そんな矢先の事故のニュース
かなりインパクトが大きかった事は
今もこうやって“その日”が近づくと
思い出さない事がないのだから
それだけ深く刻まれている証拠だろう。

この事故の後、色々な専門誌などで
高橋徹選手の情報を仕入れた。

デビュー間もなく、天才的な速さを見せ
将来を嘱望されていた逸材だったという事。

彗星の如く現れ
眩いばかりの速さを見せつけながら
余りにも速く駆け抜けて逝ってしまった
夭折の天才

この事故から9年後の1992年
一志治夫著『たった一度のポールポジション』という本が刊行され
改めて、高橋徹という人の生涯を垣間見て
その人の煌めきと一生の儚さを感じる事になった。

あれから40年
今でもモータースポーツは大好きで
更に、今ではインターネットの普及の恩恵で
世界中のレースがリアルタイムで楽しむ事も出来るようになり
嬉しい限りではあるのだが
ただ、この間にも多くの才能がアスファルトの露と消えていった事も

どんなに安全性が高められ
”あの頃だったら・・・”というようなアクシデントでも
ドライバーに大事なく済む事が増えた昨今だが
でも、“魔”というものは
一瞬の隙間を縫ってやってくる。

出来る限り、悲しいニュースを目にすることなく
「今日のレースも良いレースだった」
と、言えるようであって欲しいと思う。

皮肉にも、彼が召された日に彼の存在を知った日に

改めて、夭折のレーサー高橋徹に
哀悼の意を表します。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?