見出し画像

嗚呼 三代目市川猿之助


在りし日の元気だった三代目猿之助

三代目市川猿之助が逝ってしまった。
私に取っては二代目猿翁という名前はそぐわない、やっぱり、三代目猿之助
というより團子の方が似つかわしい。
はるか50年あまり前、私が三田の学生だった頃、彼も同じ三田の学生だった。彼は国文科、私は学部は違っていても同期だった。
当時は学部が違っても、教師の許可さえ貰えば他学部の授業を取ることができた。単位にはならない「自由科目」という位置付けだった。
戸板康二さんの「演劇論」や池田弥三郎さん「源氏物語」の講義を同じ教室で受ける僥倖に浴していた。当時の彼はすでに團子を名乗っており、背はややずんぐりむっくりだが色白で、白粉焼けのような感じだった。
とても真面目で、舞台にも出ていたが授業にはほとんど皆出席で、「よく出れるな〜」と感心したものだった。

大学3年の頃、彼は若手の登竜門とも言える新宿第一劇場に出演していた。出し物は「助六」で、守田勘弥の助六、沢村訥升のちの宗十郎の揚巻、そして團子は揚巻の妹分の白玉だった。例の「ほんの蕾の藪椿」といわれる白玉である。
その劇場出演の折にも、彼、喜熨斗政彦くん(三代目猿之助の本名)は大学を欠席することなく顔を見せていた。 ただ、女方の役だったので眉は剃り落とし、白い顔が一段と白く見えたのを覚えている。異様な面持ちだったが、彼はなに食わぬ顔で机を前にして熱心に講義を聞いていた。
「役者根性」を垣間見た時だった。

卒業後二年たち、1963年(昭和38年)、彼には不幸が襲った。祖父の二代目猿之助と父段四郎を亡くしたのである。祖父が倒れ、初代猿翁を名乗った時、團子は三代目猿之助を襲名した。襲名興行の演目は、澤瀉屋(猿之助の家の屋号)の得意演目「黒塚」だった。

歌舞伎界ではこうした場合、力のある幹部役者を頼ってその傘下に入るのが常だったが、彼はどこにも属さず独立独歩自分の道を切り開いて行ったのである。
後ろ盾を持たない役者は、毎月の公演でもいい役はつかない。
その時の彼の悩みも相当だったと思うが、ならば、と自主公演の勉強会「春秋会」を立ち上げ、以降、7回公演をしている。そこでは己の力で己の思う芝居の世界を創ろうと考えたのである。
幸い「春秋会」は好評で歌舞伎の本興行へと移って行った。
1968年4月、国立劇場で「義経千本桜・四ノ切」で狐忠信の宙乗りが大評判になった。

当時でもある幹部役者からは「喜熨斗サーカス」と揶揄されたが、その人気は絶大で凄まじく、東西の劇場でも上演され大評判になった。
それ以降の彼の歌舞伎での活動は、「復活通し狂言」、「古典の新演出」、「新作の創造」という三つの路線が彼の「猿之助歌舞伎の三本柱」となる。

その後、「春秋会」の実績をもとに、「奥州安達原」、「「敵討天下茶屋聚」から「金門五三桐」など通しの中に新解釈を入れた演目を上演している。
彼は、歌舞伎本来の魅力は「歌(音楽性)」、「舞(踊り🟰視覚性)」、「伎(演技🟰演劇性)」にあるという。
そんな理論のもと、現代人の感動できるテーマ性のある物語を持った新作をつくりたいと思うようになる。
そこの出会ったのが哲学者梅原猛氏である(昭和44年・1969)。
ここで生まれるのが、スーパー歌舞伎の第一作「ヤマトタケル」であった。

続いて「リュウオー」、「オグリ」と次々ヒット作が生まれる。

彼の功績は数知れないが、中でも多くの若手役者を育てたこともあげられる。「二十一世紀歌舞伎組」の集団名である。合宿の稽古を経てそれぞれの力を伸ばすことに成功している。現幹部になった役者の名前ももそこには見られる。

彼は古典歌舞伎から新しい解釈の歌舞伎へとの橋渡し役をしたと言ってもいい。
それは歌舞伎に原本からの「原典回帰」と言ってもいいだろう。それが復活狂言へに道筋をつけた、彼の一つのテーマだったような気がする。
またそれは、はるか以前、彼の学生時代の卒論[近松門左衛門]の指導教授の薫陶によるものを出発点として、それ以降の新たな歌舞伎の展望への道を開いたきっかけにもなったようでもある。

謹んで彼の冥福を祈りたい。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?