見出し画像

威厳のある風景、女の座り方(俺は正座)

イスラエルとパレスチナであった、留学らしい面白いことです。頼まれずとも説明したいくらいなのですが、遠い距離にあることなので上手くやる自信はありません。

---

ベツレヘムというキリスト生誕の地に、立ち寄ればいつも歓待してくれる家庭があります。彼らはムスリムで、京都大学に留学中の娘がいます。彼女とは京都の国際学生寮で半年ほど一緒でした。

これは最初にお邪魔した時のことなのですが、その日の晩餐には私以外にも客がありました。その家の一番下の男の子に就いている英語の家庭教師と、そのお母さまです。先生はアメリカのバージニア州生まれの女性で、数年前からヨルダン川西岸地区で活動をなさっており、僻地で奮闘する娘を母は慰労しに来たとのことです。誰も気に留めませんでしたし、私に関しては実践が伴っていませんが、結果的に、ムスリムとクリスチャンとブティストが揃うことになりました。実際、そのこと自体は問題になりませんでした。

お酒が入り、食も進み、場が温まってきたところ、先生が遠慮がちに、しかしながら込もった声で次のことを言いました。

「この土地の女性はなんでもやるように教育されていて、男もそれを当然として生きている。でも、私はそういう風に育ってはいない。」

人間は複雑ですから、彼女は言葉に見て取れることのみを表そうとしていたのではないでしょう。繋がりの中でも感じる種類の孤独に苦しむ時間があったのでしょうし、否定できない承認欲求に着け回される日々なのだと思います。しかしながら、やはり彼女の内に育まれた価値観というものは、目に映る風景に明確な違和感を生み出し、それは彼女にとっても処理できないほどに膨らみ、何処かで固まっていたようでした。泣上戸なこともありましょうが、折り合いがつけれず、彼女は泣き出しました。

共感する一方で共鳴はできない私は黙々と食事を進めました。隣で、その家の女の子が次へ次へと給仕してくれるのです。そういうお年頃なのでしょうが、この子はとても世話焼きで、私が行く所々に先回りして何かを準備してくれていたりします。スリッパとか、コップ一杯のジュースとか、出発する朝にはサンドイッチのようなものにチョコレートを合わせて持たせてくれます。放っておけば靴紐さえ結びたがります。見慣れないオレンジの皮に格闘していた時は、嬉々として溜息をつき、ほら貸してと、一つ一つ剥いて渡してくれました。眺めていると、年上の男性に対する照れのようなものの一方、学んだことを披露し褒められることの嬉しさがこぼれています。先生の言った通り、彼女はそれらを教えられているのです。

もちろん、それら全てを、母がそれぞれ時間をとって仕込んだのではないでしょう。それより、母の姿に学んだことの方が多いのだと思います。実際、そのサンドイッチというものも、自分が作ると母に主張して代わったのだと言いました。とかく何かが受け継がれているようでした。

ここでサンドイッチは何かの象徴ではありません。出立の餞別を受けたことはどの文化圏でもあります。ただ、そこの土と水で生きていない者からすれば、やはり何か大きなものを、それぞれの背景に感じる訳です。文化と言って説明がつくのならいいのですが、先生は文化に泣かされたと言えば多くを漏らします。こればっかりは、違うところに生まれて違うように育ってきたから、としか言えません。

泣きながら、先生の目線は時々、私の隣に注がれていました。確かに注意はそちらに惹かれているようなのに、それを気取られることを避けたくもあるようで、散らした目線がチラチラと私にぶつかりました。流石に、私は食べるのを止め、給仕する手も止まりました。場が行き場所を失った瞬間、先生の母が次のように言いました。

「私は彼女をそのように育ててはいません。」

ここで響くほど強く言った訳ではないです。単に、娘を奮い立たせるために、肩に手を回しながら言われた母の言葉だったと思います。だから、殆どの意味合いにおいては「私は貴方をそのように育ててはいません」ということだったのだと思います。事実その言葉は必要だったと思います。

彼女たちが抱き合うので、私たちは場から切り離されました。光景の意味は分からずとも、子供は緊張を敏感に察知し、動かなくなります。逃げ場なく、食べるしか能のない私はもう一度手を動しますが、壊れたものは簡単に戻りません。こちらは姉が妹の肩を抱き、そこにもやはり威厳があるようです。この子らの母はキッチンで次の料理を温めています。

とりあえず私は足を崩し、「やっぱこっちの方が慣れてるんで」となんとなく正座になりました。場がそれでどうかなった訳ではありません。二極より多極を意図した訳でもありませでした。

---

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?