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魔境にて

俺だって一応人の子だ
最低で捻くれてる性格だと自覚があっても誰かを切り捨てれる性分じゃないし。

俺を大切にしてくれる人はずっと大事に思うし

その人達と過ごした時間はいつまでも思い返して、懐かしさと同時にもう当時のようには出来ないと寂しさを感じたりする。

みんなが当たり前に感じる事を、俺もまた当たり前に感じてると思う

故郷とは、その場所で過ごした年月と出来事の数で決まると思う

ここ東京にある杉並区の浜田山、西永福周辺は俺の第2の故郷だ

この場所は様々な人との出逢い、別れ、思い出をくれた

こんな言葉、誰でも言える曖昧で打算的な言葉だと思う。
でもこれは、当事者が感じている事や景色を受け手が全て理解できないから受ける印象だとも思う。

どの場所へ行ったって出会いはあるし、別れもある。人と関わる行動をとっているなら当たり前のことだ

しかしその中でもこの場所は特に強烈な物語が詰まった場所だった。

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•パティシエをしていた時の話。

仕事終わりにはケーキ作りの練習をして帰るまでが下っ端の業務の一環だった
修行という名目で入った浜田山と言う街の小さなパティスリー。
就職してからが勝負だと言うのに、
当時の俺は「企業に就職する」と言うゴールを達成してしまっていた
職人が魍魎跋扈する世界、何がそんなにお菓子に対して情熱を向けれるのか理解できなかった。
ケーキは好きだったが作ることに興味を持てなかった。
練習は苦痛で堪らなかった。
仕事から逃げるように沢山のバンドに加入していたが、その中で1番精力的に活動していたバンドのギターが西永福に住んでいた
韓国人なのだが日本の音楽が好きで、アーティストになる為来日したそうだ。
仕事で疲れ果て、バンドの集まりに行かなくなった俺を気にかけては店で1人洗い物をする俺の手伝いをしてくれり、
そいつが働いていた居酒屋に一緒に行ってご飯を食べさせてくれたりした。
こんなことされたら、音楽も音楽をやる人間も好きになるに決まってる。
自然と涙が出たよ。
同時期に好きだった職場の女子大生に振られてその時より泣いた

•バンドで本気で売れようと努力した話

しばらくして俺はパティシエを辞めて、ギターの奴が働いてる西永福の大衆居酒屋でアルバイトを始めた。
ラウドロックバンドだった。
そいつとは喧嘩をすることが増えた。
そいつの音楽に対する熱意も、バイトをする姿勢にも疑問だらけだった
お前が韓国から日本に来た理由はその程度のものなのかと何度も問い詰めたりした。
バンド仲は最悪だった。
趣味を仕事にしようとした時の情熱の向け方が俺には分からず、がむしゃらに走り続けているような感覚だった。
ベースの奴とだけ仲が良かった
そのバンドをやりながらも、これも修行だと思い無料で様々なバンドのサポートドラムに加入した
24時にバイトを終えてから、バンドの深夜練を2件梯子して10時ごろ帰宅、14時に出勤みたいな事を沢山していた
誰よりも頑張っているつもりだったし、そう言う姿を見て何かを感じて欲しかったと思ってた。
そのバンドは西永福の、その居酒屋で解散した。
解散話は閉店後の居酒屋を借りて行われ、店長も別室で話を聞いていた。頼んでないけど。
その間店長はずっと勤怠をつけて出勤状態にしていたようで、営業時間24時までの店で売り上げも無いくせに朝の3時まで何をしていたんだと翌日マネージャーにめちゃくちゃ怒られていた
申し訳ないとは思わなかった。バカだなと思っていた


•西永福で通っていたバーの話

働いてた居酒屋の近くには、朝までやっているバーがあった。
酒の席を断り続けていた俺が21で初めてまともに酒を飲んだ場所がそこだった
元々は例の韓国人ギターが通っていた店で、俺もバイト終わりの付き添いでよく通っていた。
そこにカケルくんと言う女装が趣味の男がいた。
本名は翔(ショウ)と言うのだが、カケルとも読むのでカケルと名乗っていた。俺に限らず全員に本名は伏せていたようで、聞き出すのには少し時間がかかった。と言うか偽名だと思っていなかった
そいつは兎に角無欲な奴で、金を使わずに遊ぶ方法を探求していた
俺はそれに反して欲望の塊なので普通に金がなかった。
そんな俺とカケルくんは「金を使わずに遊ぶ」と言う目的が一致した
歳が一緒だった事もあり、すぐに打ち解けた。
何時間も辺りを散歩をしたりキャッチボールをしたり、そんな惰性的で緩やかな時間が好きだった。
カケルくんも大概変わり者だったが、彼の友達も変わり者ばかりだった
カケルくんと俺とカケルくんの友達3人で車に乗ってドライブに出かけた時、明らかにカケルくんの友達が車を擦ったのに頑なに認めずに拗ねてどっかいってしまったり。茨城の知らない土地で。
凄くおとなしそうで口を開いたところを見たことがないような人だが人の彼女を寝とる人だったり。
俺とカケルくんと同い年なのにめちゃくちゃ金を持ってて、酔っ払うとキャバクラに行こうとワガママを言ってくるちょっとイケメンな奴だったり。
金はないのに、一緒にいて飽きることがなかった。
そのバーには気功を使ってマッサージをすることで疲れを癒すことができるTBSの社員さんがいた。
実際は痛いだけで全然効かないのでみんなは半ばバカにしていたのだが、モーションが一つ一つ大袈裟な上に真剣な顔をしてやるものだから気孔ではなくまさに奇行だった
「ハッ!」という発声と共に片足をダン!と踏み込み、手のひらをどこかへ向けるのだ。
マッサージをした手のひらでその人の疲れの気を吸収し、掛け声と同時に手のひらを払う事でそれを飛ばすらしい。
気を飛ばした先に人がいた場合疲れがその人に移ってしまうらしいので、施術中は離れていてと良く注意されていた
ここだけの話最初はマジで信じてた
その人はツケで良く俺に酒を奢ってくれていたが、ツケを踏み倒すことで有名な人だったことは後々知った。
他にはONE OK ROCKのローディーさん、神聖かまってちゃんのローディーさん、乃木坂46のカメラマンさんなど。
俺が関わりたい業界の人もよく通う店だった
俺はそのバーを通して東京に集まる人間の面白さを肌で感じていた


•魔境に住む3人の話

なんやかんやあり、掛け持ちしていたバンドの一つがロッキンジャパンフェスに出場した
そのバンドはフェス出場後にギターとベースが脱退。ボーカルと俺だけが残った
ボーカルの知り合いのギターと、俺の知り合いのベースをバンドに招いて活動していた
俺は特にベースの人と仲がよかった。
名前は石原さんと言う。
ギターの菊地さんとは今でこそ仲がいいのだが、当時は結構嫌いだった。まあそれはまた別の話。
石原さんと俺は違うバンドのサポートで知り合っていた。
そのバンドでは石原さんと俺がサポートで演奏しており、サポートのくせに遅刻はするしライブ前にパチンコに行くし散々な奴だった。
売れようと必死だった俺にはその神経が信じられなかったが、彼は良くも悪くも素直に生きていた。

彼は俺の価値観を変えた。何かのしがらみから解かれたかのような気持ちになったし、全てを気持ちと体力で乗り切った俺に「なんでも全力でやればそれが正義になると言うわけではない」と言う事を言葉を使わずに教えてくれた。
彼は絶対にそんなつもりなかったと思うけど。
パチンコを打ちに行く時、「手首捻ってたら金出てくる機械に座ってるだけだよ」って言い訳が好きだった
彼は浜田山に住んでいた。
そこは彼の音楽学校時代の友達2人と同居しているシェアハウスだった。
その時不思議なことに住所不定になっていた俺は彼の家に入り浸るようになり、勝手に引っ越して勝手に住んでいた。俺の家賃は10000円だったがそれもよく滞納していた。
これ以上は俺の分が悪くなるので話を馴れ初めに戻そう。
石原さんは、見た目はめちゃくちゃ冴えないオタクのような男だ
そんな彼の友達はどんな人なんだろうと、初めて家に向かうときはワクワクしたものだ
それは夕方のこと、辺りは薄暗くなり出していた
石原さんは家にいなく、同居人が家にいるかもしれないけど気にしないでと連絡を受けていた。
人と接することに抵抗はないので、俺自身その事を全く気に留めていなかった
「お邪魔しまーす」と挨拶をして家に入った時、薄明かりの中ボサボサの髪を肩の下まで伸ばした、顔がピアスだらけの男が立っていて俺の方を振り向いた。
大畑という男だ。
俺は同居人かと思う前に、強盗かなんかかと本気で思い体が硬直した。
見た目がキモオタな石原さんの同居人がこんなピアスだらけの化け物みたいなやつな訳がないと、俺の危機管理能力がその考えに至らせた
多分数秒だったのだが体感数分お互い無言で見合った後、「どちらであったとしても声をかけなければ」と思った。

俺「初めまして、石原さんの友達の慧一と言います」

大畑「...チッ」

彼は舌打ちをした後俺の横を通り過ぎ、ノソノソと2階へ上がっていった
俺は少しちびった。これはマジ。
後日談だが大畑さんは人見知りな上に舌打ちが癖なので、挨拶を返せずにその場で去ろうとした際に自然と舌打ちが出てしまったそう。後日そんなつもりなかったと謝ってくれた上に、彼とは後に西永福で一緒に働くことになる

もう1人板橋と言う男がいた
彼は3人の中で見た目が1番ヤンキーのような男だったが、物腰が柔らかく優しそうだった
八王子出身なのだが、ムキムキな自分の事を「ハチコング」と呼んでいた。八王子のゴリラという意味らしい
4人で徹夜麻雀をすることがよくあったのだが、素人の俺に迷ったら必要な牌から切れと教えてくれたのは板橋さんだった。
俺は迷ったら同じ図柄の牌を切りまくっては負けまくっていた。
後に板橋さんとは渋谷の店で一緒に働くことになる。

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他にも話しきれない程の出会いや思い出がある。

しかしその浜田山と西永福から、当時の友人知人は次々と住まいを移した。

例に漏れず、俺もその中の1人だ

先日、そのシェアハウスは8年の年月を経て引越しが決まったのだ。

彼ら3人が、俺の故郷に住む最後の友達だった

俺は故郷に帰る理由を失った。
だって思い出以外に何もない場所だから

明大前の駅中にはペッパーランチができていたし
浜田山商店街の中には銀だこができていた
知らない家が沢山建っていた
石原さんが40000円くらい負けた久我山のパチンコ屋さんは潰れて無くなった。


しかし、上京して初めて浜田山で見た浮浪者の人は先日も元気に浮浪者やってた。それだけでも約10年だ。
話しかけられている警備員さんは少し困ってた

例えば大規模な土地開発で浜田山がなくなろうが、地番整理で浜田山という土地の名前がなくなろうが、きっと俺はその場所が好きだ
その浮浪者の人もきっと浮浪者のままだ

代わろうが変わるまいが、俺が大切に思っていればいいと思う

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