僕たちはいつから金を使わなければ幸せになれなくなったのだろう

数年前、よく同居人とじゃんけんで進む方角を決め、その方向にしか進むことのできない縛りのある散歩の様なことをしていた。

コンビニや自販機の前に辿り着くと、そこでまたじゃんけんをしてあいこが出なければ飲み物を買ったりお店に入ることができなかった。

とても馬鹿馬鹿しい遊びだ。浜田山から荻窪まで温泉に入りに行き、歩いて帰るつもりが何故か中野にたどり着いてしまい高円寺を経由して浜田山まで帰ったこともあった。

4時間弱かかって家に着いた。道のりの終盤は同居人も僕も疲れて無言だった。夏だった事もありもう一度温泉に入りたくなるくらい汗だくになった。

楽しかった。あの頃の僕はどうしようもなくだらしがなく、とにかく金がなかったが何故かとてつもなく幸せであった。

先日、その散歩道を久しぶりに歩く機会があった。

僕はその道を歩くことがとても苦に感じた。

思い出が蘇ったからなんとなく息苦しくなったのではない。単純に歩き疲れたのだ。

ものの15分程度。知れた道を歩いただけだ。

過去になんなく通っていた道が、乗り越えなければならない壁の様に思えた

すかさず年齢のせいにした自分がとても哀れに思えた。

ーーー

4時間歩いて缶ジュース1本で満足していた僕は、いつの間にか遠くへ行ってしまった様だ

金は人に幸せも不幸せも暴力的なまでに平等に与え、自販機に入れる為の100円玉から反射される僅かな光が自分を映し出す鏡の様だった。

今僕が持つ100円玉は、曇り切っていて自分の姿がよく見えなかった

今まで平気で歩いていた道がいつから苦になったのか僕にはわからない。

当時より美味しいものをたくさん食べて、美しい景色もたくさん見て、新しい感性がたくさん芽生えたつもりでいたがあの頃買った缶ジュースの前ではどれも意味を持たない様に思えた

自分が大切にすべきものは、今の自分では案外気付けなかったりするんだろうか。

気付けないほど僕はなんとなく生きているのだろうか

飲み会で仲のいい友達と世間話をして10,000円支払わなければ幸せになれないだろうか。

いい楽器を買って、社会人として会社に貢献して、いい服を買って大人になったねと言われなければ幸せになれないだろうか。

僕は臆病になったと思う。金が寄り添ってくれないと怖くて何もできない、何も感じることのできないつまらない男になったのだと思う

金がなくて人から金を借りてはばっくれたり、たまにきちんと返したり飲み代を全部奢ってもらったり、帰りの電車賃がなくて駅まで100円届けに来てもらったりしてたあの頃の僕の方がまだ胸を張って生きていた。

あの頃に戻りたいとは思わないが、あの頃の気持ちを忘れてはいけない。

東京都杉並区上高井戸3丁目より。

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