見出し画像

【短編小説】mourn

 春の薫りのする、すっきりと晴れた昼下がりだった。北国の3月頭だというのに、もう冬の匂いはどこにも見当たらず、コートも要らないような暖かさだった。まるで4月下旬のような気温と風の薫りに温暖化の影響を感じつつも、春の陽気に誘われて皆ふらふらと公園を散歩していた。子どもたちは楽しげに声をあげながら柔らかな土の上を走り回り、老夫婦は仲良く並んで頭上を飛び去る渡り鳥を見送っていた。僕は今年初めての自転車の試運転がてらこの公園に来たところだった。

 彼女はベンチに腰掛けていた。
 彼女に目を留めたのは何故だったのだろう。春の明るい空気の満ちる公園でそこだけ、冬が残っているように感じられた。公園の片隅、目立たないところに据え置かれたベンチにも等しく陽射しは降り注いでいたし、彼女が着ていたのも春物のベージュのコートだった。それなのにそこには、春の黄味掛かった柔らかい光ではなく、冬のどこか白々しくて冷たい光が射しているように思えた。
 僕は公園の入り口近くに立って、反対端のベンチに座る彼女から目を離せなかった。じっと見ていると、彼女が不思議な動きをしていることに気がついた。まるでタンゴのように緩急の激しい腕の動き。動きが止まったかと思うと、ぱっと高く振り上げられた。それは一つの芸術的な踊りにも思えたが、何か一貫したパターンは見つけられなかった。
 僕はそっと自転車を押してそちらに近づいた。雪が溶けた地面にタイヤが沈み込んで重かった。

 ベンチまで30メートルほどのところまで近づいてようやく、彼女の動きの理由がわかった。彼女は猫をじゃらしていた。お腹を見せて転がる猫と戯れる様子は長閑な風景のはずなのだが、その空気は冷たいままだったし、何か違和感を感じた。違和感の正体を探るため、僕はさらに自転車を押した。
 さりげなくベンチの側を通り過ぎようとした時、彼女が顔を上げた。彼女の瞳がはっきりと僕を捉えた。
「ねえ、猫ちゃん、可愛いわよ」
 涼やかな声だった。
 雪のように白くきめ細やかな肌と対照的に、瞳と髪はどこまでも黒い。コントラストの強い、はっきりとしたシャープな顔立ちだった。けれど彼女の放つ『冬』はそれらから来るものではないように感じた。
「ほら、見て。転がっちゃって、警戒心が全くないんだから。私が今ナイフで腹を刺しても、何が起きたかわからないって顔をするんでしょうね。私のことを疑いもしない」
 猫に向ける目は慈しみに溢れて細めているように見えたが、その奥の目は驚くほど冷え切っていた。虚な目とはこういうものを言うのだろう。春の陽射しは黒い瞳に少しも届いていなかった。僕はどこか恐ろしさを覚えてそれ以上近づけなかった。
「よく飽きないわね。同じじゃらし方しかしてないのに」
 猫の方に目をやって、はっと、違和感の正体に気づく。彼女の手にあるのはただの紐ではなかった。したっ、しゅっ、と動くそれは、50センチ近くあろうかという長い髪だった。
 彼女の髪は、耳の下あたりですっぱり切り落とされていた。梳かれておらず、レイヤーも入っていない、本当に切りっぱなしの断面。束になった髪はバラバラに長さが違い、長いままの髪も数本背中に垂れている。その痛々しさが、彼女に冬のような冷たさや切なさを醸し出しているようだった。
「その髪、」
 ようやく僕は声を出した。冷たい光は僕のところにも及んでいた。僕の声など届いていないかのように、彼女は髪で猫をじゃらし続けた。返事が返ってくることを諦めかけた頃、彼女の唇が離れた音が微かにした。
「遺髪よ」
「イハツ?」
 耳慣れない言葉を反芻する。
「そう、遺髪。遺書、遺骨、遺髪」
 そうして亡くなった人の髪であることを理解する。けれど、彼女の手にある髪は、なんと言えばいいのだろうか、とても死んだ人の髪には思えなかった。死んだ人の髪をまじまじと見たことも触ったこともないが、遺品というものには独特の気配が宿る。全てを噤んでいるようでいて、もうどこにもいない持ち主のために何かを語っているような。彼女の手にあるものはそうではない。まだ生き生きとしているが、あまり語りかけてくるものは感じられない。それはきっと、髪が語らずともその持ち主自身が言葉を発することができるからだ。
「その髪の持ち主は、」
「私」
 当然のように言う。冗談だろうという気持ちが半分、けれど彼女の危うい雰囲気であればと思う気持ちが半分で、何かお約束のように取り敢えず彼女の足を凝視してみる。すると彼女は声だけは可笑しそうに「幽霊はみんながみんな足が無いものなの? そういうのをステレオタイプとでも言うんじゃない?」と言った。彼女はもう生きてはいない人間なのだろうか。
 彼女が髪に目を戻す。
「長いでしょう? 腰まであったかしら。さっき切っちゃったの。手で適当に掴んで、鋏で、じょ、き、って」
 じょ、き、と言う時、彼女は不必要なまでに唇を大きく動かして一音一音を際立たせた。赤い口紅を厚く塗り込めた形のいい唇が彼女の真っ白な肌に目立つ。
「髪の束を切るのって、思っていたより手応えがあるのね。ちまちま前髪の先を弄るのとは大違い。私の身体の一部を切り取ってるんだって、まるで魂を切り離すみたいに。髪は女の命って言葉もあるくらいだものね。せっかく長いのに切るなんて勿体無いとは言われたけど、私はもう切っちゃいたかったのよ。私を殺したかった。それにどうせすぐに伸びるでしょうし。私、髪が伸びるのがとても早いのよ。2年前に、これより少し長いくらいに切ったの。それなのにあっという間に伸びちゃった。どうして髪が伸びるのは早いのかしら。身長は伸びなかったのにね。ヘアドネーションにでも出せばよかったのかもしれないけど、こんな髪、やめておいた方がいいわよ。なんとかストレートにしているだけで、本当はものすごく扱いにくい癖毛なの。それにそうやってヘアドネーションに出したところで、私の場合偽善でしかないわ。誰かのために伸ばしていたのでもないし、本当にただなんとなく、切りたくなっただけだもの。私の髪を誰かに使うなんて止した方がいいわ。この髪には、魂が宿っているのよ。私の汚れた醜い魂が」
 彼女は一人で勝手に話し続けた。
「これ以外の髪はさっき橋の上から撒き散らしちゃった。呆気なかったわよ。不安定に、真っ直ぐ落ちて行くこともできないでふらふら落ちていくの。一つだった束がバラバラになって、離れ離れになって。私の2年間なんて、あんな風に簡単に風に散ってしまうのね。すぐに目で追えなくなっちゃった」
 風に舞う大量の長い髪を想像してみる。どうして髪というものは、体から切り離された途端に気味悪く思えてしまうのだろう。
「その髪はどうするんですか」
「この髪は、そうね、どうしてとっておいたのかしら。もう全部風に撒き散らして仕舞えばよかったのに。馬鹿みたい。思わず一房、手放さずにはいられなかったの。本当に、馬鹿でしかないわ。それがこうして猫を喜ばせているんだから、何も知らない猫は幸せよね。憎たらしいくらい」
 猫は彼女の視線に真っ白な腹を晒していた。彼女はまたたっぷりと黙って、髪の毛を動かした。猫の爪が引っかかっては、数本の髪の毛が猫の顔に落ちる。猫は鬱陶しそうに目を細めて、それでも髪の毛に戯れつくことをやめない。
「そうね、レースにするのもいいかもしれないわ」
「レース?」
 彼女が口を開く度に思いがけないものが出てくる。
「競争のレースじゃないわよ。服になったり、テーブルクロスになったりするレース」
「髪の毛でレースを?」
「ええ。髪の毛で編んだレースってあるのよ。母親が、若くして亡くなった娘の遺髪で編んだレースを聞いたことがあるわ。遺髪を入れたモーニングジュエリーっていうアクセサリーもある」
 いいわね、レースにしましょう、と彼女は呟く。
「レースは、誰が編まれるんですか」
「遺髪専門のレース編み師というのも聞いたことがあるけど、あまり公にしているものではないようだし、きっと私にはそこへの道は開けないでしょうね。自分で編まないと」
「レースって自分で編めるものなんですか」
「編めるわよ。鉤針一つでいくらでもね。けれどこの髪の量じゃとても小さなものになるでしょうね。鉤針も家にあるものじゃ太さが合わなさそう。何かいい手を考えないといけないけれど、髪の毛だって基本は普通のレース編みと変わらないと思うわ」
 彼女はそう言うと、髪の毛を躍らせるのをやめて、猫の腹部を少し乱暴に撫でた。彼女の爪が突き刺さってしまうのではないかと思ったが、人慣れした猫は嬉しそうに身を捩らせた。猫を撫でる彼女の表情は髪の毛でよく見えなかった。

「レースを編むわ」
 呟くように言って彼女が立ち上がる。彼女は切れ長の目を伏せ、手の中の髪の毛をじっと見つめた。長さの揃わない髪が俯いた顔にかかる。髪の下から覗く唇が微かに動く。
「別に、あの人は私の髪を褒めてくれたわけじゃないのよ。ロングヘアが好きだったのでもない。でもこうすれば、あの人を忘れられる気がしたの。前に進めると思った。街の雑踏の中ですれ違ったって、髪を切った私のことなんかきっとあの人は気づかない。それでいいの。だって、私は死んだんだもの」
 遺髪が風に震えた。彼女の声は誰に聞かせるのでもなく、自分に言い聞かせているようだった。僕が声をかけなくとも、きっと彼女は猫を相手に同じことを言っただろう。いや、もしかすると彼女は、僕を待っていたのかもしれない。
「だから、弔ってあげないと」
 ぎゅっと髪を握りしめて言う。そして、彼女は春を掻き分けるようにして二本の足で歩き去っていった。雪が溶けて間もない泥のような地面には、彼女が歩いた跡が刻まれていた。

 頬を撫でる風は暖かく柔らかだった。自転車は春の空気の中を進んだ。白鳥はVの字を成して北に飛んでいった。頭上から降ってくるその声は寂しげにも聞こえた。
 不意に、風が運んできた何かが顔に絡みついた。自転車を止めて見ると、それは束になった5本ほどの黒く長い髪の毛だった。
 僕は髪の毛を暫く見つめてから、それを蝶々結びにした。掌に乗せていると、やがて蝶はいとも容易く風に攫われていった。
 こうすれば彼女の魂は浮かばれるだろうか、と思いながら、不安定に揺れてどこかへ消えていく蝶を眺めた。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?